悪魔

先週の朗読会で、初めて他人の文章を朗読した。
これまで朗読会といえば、自分の書いた短編を読んできた。
他人の文章を朗読するとき、ある不思議な感覚にとらわれた。
文章を書いた他人に憑依されるというか……、その人の心情がありありとリアリティをもってわかる……というか。
この体験はとても面白かった。演劇で役を演じるのとは、またちょっと違う感じだ。
朗読という表現はとても奥が深いのだなと感じた。

初めて福島さんにお会いしたが、もう三十年も死者たちの言葉を朗読しているという。
彼は朗読することで死者を呼び出せると言っていたけれど、わかる気がした。
だから、朗読とはつまり祝詞なのだ。死者だろうが、神様だろうが呼び出せる。
そう思うと、なんだかもっと朗読というものをつきつめてみたい気がしてきた。
シャーマニズムと結びつけて考えてみるとさらに面白い気がした。

別に誰が聞いてくれなくてもいいのであって、家で一人で朗読してみたら……と思うが、それはちょっと怖い気がした。自分がどこかべつのところへ行って、戻って来れないような気がしてしまうからだ。誰かがそばにいてくれないと、集中して朗読というのをするのは、なんだかとても怖い。なにかを呼び出してしまいそうで……。そのときなにが起るかわからない。マジで怖い。

マジで怖がっている自分に驚く。というのは、マジで怖がるというのは、確信しているということだ。それが起こることを知っているということだ。
私はこういうことにめったに怖がらないので、怖がっている自分にびっくりした。
私が怖がっているということは、朗読という体験が私にとってものすごくリアルで、そこに変性意識体験があったということの証である。

林さんの文章を読んでいて、林さんの迷いや怖れや、林さん固有の頑固さや、それから、脅え、仮面、そういうったものがぐちゃぐちゃながらも次々と想起されて、たぶん私の首が回らなくなったのはこの体験のせいだと思う。
ある複雑な感情体験は、ほとんど言語化できない。言葉を仕事としている私でもほとんど言語化できない。だけど、ブログなど読んでいると、多くの人はブログで言葉にしたことで自分を納得させてしまっているようだ。これはブログの悪い点だなと思う。およそ言葉にできない感情にこそ、ほんとうに凄い気づきのエッセンスが凝縮しているのであり、それをブログ化できるような平易な言葉で表現して、捨ててしまうのは、おいしい部分を全部捨てているようなものである。が、そういう人がほとんどだ。残念だ。

翌日、私がメキシコでとてもお世話になった画家の竹田さんと会うことができた。ほとんど何も話をしなかったけれど、話さないというコミュニケーションが可能な竹田さんといっしょの時間を過したことは貴重だった。ぼんやりと思索するというのは、とても難しい、意識してできるものではないのだけれど、でも、ぼんやりと思索している人の側にいることで学ぶことができる。およそ、私は誰かに学ばなければ、なにもできない。

大切なのは答えを出したり、答えを提示したりすることではなく、正直に問うことである。問いをもつことである。永遠に問いをもつこと。その問いこそが答えである。そのことを、わかってはいるが、つい答えを求めてしまう癖ができあがっており、こんちくしょうと思う。

また、問いは常に悪魔である。答えは天使だけれど、問いは堕天使だ。問いをもつことは、たぶん、悪魔に取り憑かれることであり、問うことは危険だ。そのこともよくわかっていないければいけない。答えは、安全なのだ。危険なのは問いだ。問う人間は嫌われる。なぜなら、問う人間は悪魔に取り憑かれているからだ。

悪魔に取り憑かれることなしに、問いを発することはできない。
by flammableskirt | 2008-10-21 15:00

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