お寺の役目ってなんだろう?
2008年 07月 16日
昨日、お寺のことをブログに書いたら、上田紀行さんからこんなメールが来ていた。
-----------------以下転載
ニューヨークタイムズに日本のお寺を取材した記事が出ました。
In Japan, Buddhism May Be Dying Out
日本で、仏教が死滅するかもしれない
http://www.nytimes.com/2008/07/14/world/asia/14japan.html?em&ex=1216180800&e
n=c78804cddde7b415&ei=5087%0A
ニューヨークタイムズの東京支局長と記者の二人が、秋田県の男鹿半島のお寺をいく
つか訪ね歩いて、お寺の置かれた厳しい現状をレポートし、都会でのお寺離れなどの
情報も加味して、かなりの長さの記事を書いています。
私もコメントを求められ、2時間くらい話しましたが、新聞の常で、そのうちのごくご
く一部だけが採用されています。最近の直葬の増加と、日本仏教が第二次世界大戦中
に戦争を肯定し大政翼賛に加わってしまったことによるその後のダメージ、という部
分の二つです。仏教ルネサンスについても熱く語ったのに、載らなくて残念。
二人の記者は秋田での取材で、お寺の未来に強い危機感を持ち、今回の記事では仏教
復興どころではなかったというところでしょう。
ニューヨークタイムズにこんな記事が出るというのは、それはそれですごいことです。
記事の内容はシビアですが、それは日本のお寺の現状に対する強い興味を物語ってい
るものでしょう。
ちなみにこの記事は、読者が「この記事を読め!」と知り合いにEメールしたランキン
グの第四位にランクされています。
この記事を読んだアメリカ人たちもたいへん強い興味を抱いたということでしょう。
日本のお寺の現状もグローバルな関心を引くようになってきましたね。
----------転載終わり
日本のお寺が厳しいのは、先祖供養のためにお寺とつきあうようになってよくわかる。
お寺の存在意義が問われている。お寺は経営難と後継者不足でどこも青息吐息だ。でも、宗教って、いわゆる人間力だからなあ。オーナーである住職に魅力もやる気もないのであれば、わざわざお寺に行こうという気にはなれない。説法などされても「口ばっかりだなあ……」と感じるのはいたしかたない。潰れるものは潰れるし、残るものは残るのだろう。中途半端なものは淘汰される、それはどうしようもないように思う。
お寺の先祖供養というのは、昔ながらの暦にのっとった、春秋の彼岸と、夏、お坊さんに家に来てもらってお経を上げていただくものだ。しかし、私のように実家の長男が死んで、嫁いだ娘がお墓を守っている……というような場合、嫁ぎ先には嫁ぎ先の宗教があり、なかなかややこしい。ましてや実家の菩提寺は家からすごく遠い。わざわざお経をあげに来てもらうような距離じゃない。
さて、ここで思う。僧侶のお経というのは、死者の弔いに役立つのであろうか。
般若心経くらい私があげる、と思うのは私の傲慢だろうか。なぜ、僧侶のお経はありがたいのだろうか?私にはそこがわからない。先祖が曹洞宗だったから、曹洞宗の僧侶のお経が効果があるのだろうか。こんなに自分にとってしっくりこない先祖供養をやり続けることに、ものすごく抵抗を感じている。
私としては、お寺とのつきあいは、お墓の場所代を払うという、すっきりした形でお金のやりとりだけにしたいくらいだ。供養は自分がやる。それは自分の修行としてやる。自分が生まれたことの奇跡を確認し、感謝する修行として、お寺ではなく自分でやらせてもらう。なにかそうしたい。お経が必要なら自分であげる。
日本を旅して、先祖供養の形を見てきた。先祖供養の形はひとつではなかった。決りというものはないのだ。どう、自分がその行為と一つになれるか、ということである。人にまかせてしまえば楽であるが、私は私の先祖供養をしたいと思う。そして、どうもそれは仏教とは全然関係ないような気がするのだ。
供養の思想とは、縄文的なアニミズムである。鎮魂とはまた違う。仏教は戦争で殺した人間を鎮魂することと結びついて広がったが、先祖を供養するのはもっとおおらかな、清々しい行為なのである。生きている喜びをかみしめるような行為であり、仏教的な儀礼とはなんだか違うのだ。
-----------------以下転載
ニューヨークタイムズに日本のお寺を取材した記事が出ました。
In Japan, Buddhism May Be Dying Out
日本で、仏教が死滅するかもしれない
http://www.nytimes.com/2008/07/14/world/asia/14japan.html?em&ex=1216180800&e
n=c78804cddde7b415&ei=5087%0A
ニューヨークタイムズの東京支局長と記者の二人が、秋田県の男鹿半島のお寺をいく
つか訪ね歩いて、お寺の置かれた厳しい現状をレポートし、都会でのお寺離れなどの
情報も加味して、かなりの長さの記事を書いています。
私もコメントを求められ、2時間くらい話しましたが、新聞の常で、そのうちのごくご
く一部だけが採用されています。最近の直葬の増加と、日本仏教が第二次世界大戦中
に戦争を肯定し大政翼賛に加わってしまったことによるその後のダメージ、という部
分の二つです。仏教ルネサンスについても熱く語ったのに、載らなくて残念。
二人の記者は秋田での取材で、お寺の未来に強い危機感を持ち、今回の記事では仏教
復興どころではなかったというところでしょう。
ニューヨークタイムズにこんな記事が出るというのは、それはそれですごいことです。
記事の内容はシビアですが、それは日本のお寺の現状に対する強い興味を物語ってい
るものでしょう。
ちなみにこの記事は、読者が「この記事を読め!」と知り合いにEメールしたランキン
グの第四位にランクされています。
この記事を読んだアメリカ人たちもたいへん強い興味を抱いたということでしょう。
日本のお寺の現状もグローバルな関心を引くようになってきましたね。
----------転載終わり
日本のお寺が厳しいのは、先祖供養のためにお寺とつきあうようになってよくわかる。
お寺の存在意義が問われている。お寺は経営難と後継者不足でどこも青息吐息だ。でも、宗教って、いわゆる人間力だからなあ。オーナーである住職に魅力もやる気もないのであれば、わざわざお寺に行こうという気にはなれない。説法などされても「口ばっかりだなあ……」と感じるのはいたしかたない。潰れるものは潰れるし、残るものは残るのだろう。中途半端なものは淘汰される、それはどうしようもないように思う。
お寺の先祖供養というのは、昔ながらの暦にのっとった、春秋の彼岸と、夏、お坊さんに家に来てもらってお経を上げていただくものだ。しかし、私のように実家の長男が死んで、嫁いだ娘がお墓を守っている……というような場合、嫁ぎ先には嫁ぎ先の宗教があり、なかなかややこしい。ましてや実家の菩提寺は家からすごく遠い。わざわざお経をあげに来てもらうような距離じゃない。
さて、ここで思う。僧侶のお経というのは、死者の弔いに役立つのであろうか。
般若心経くらい私があげる、と思うのは私の傲慢だろうか。なぜ、僧侶のお経はありがたいのだろうか?私にはそこがわからない。先祖が曹洞宗だったから、曹洞宗の僧侶のお経が効果があるのだろうか。こんなに自分にとってしっくりこない先祖供養をやり続けることに、ものすごく抵抗を感じている。
私としては、お寺とのつきあいは、お墓の場所代を払うという、すっきりした形でお金のやりとりだけにしたいくらいだ。供養は自分がやる。それは自分の修行としてやる。自分が生まれたことの奇跡を確認し、感謝する修行として、お寺ではなく自分でやらせてもらう。なにかそうしたい。お経が必要なら自分であげる。
日本を旅して、先祖供養の形を見てきた。先祖供養の形はひとつではなかった。決りというものはないのだ。どう、自分がその行為と一つになれるか、ということである。人にまかせてしまえば楽であるが、私は私の先祖供養をしたいと思う。そして、どうもそれは仏教とは全然関係ないような気がするのだ。
供養の思想とは、縄文的なアニミズムである。鎮魂とはまた違う。仏教は戦争で殺した人間を鎮魂することと結びついて広がったが、先祖を供養するのはもっとおおらかな、清々しい行為なのである。生きている喜びをかみしめるような行為であり、仏教的な儀礼とはなんだか違うのだ。
by flammableskirt
| 2008-07-16 10:58