かたちあるものたちの世界
2008年 04月 15日
庭のフェンスに毛布やシーツや、それから座布団なども並べて干した。そうこうしているうちに、猫が網戸を開けて逃げ出した。うちの猫は純血種のためか外に出るとすぐ感染症になり、高熱を出して吐き、死ぬ目に合う。家族も毎日、病院に通い、てんてこまいとなるため、外に出さないように神経質になっている。
でも、こんな天気の日には猫を自由に外に出たいのだろうなあと思った。これから夏になって、網戸を開けることを覚えてしまった猫を家のなかに閉じこめておくことができるだろうか。たとえ、病気で死んだとしても、猫が外に出たくてたまらないのならしょうがないのではないか……。そんなことを考えた。
夫は必死になって猫を探していたが、今日は庭の外に出てしまったらしく、家の周りにはいなかった。いつもならものすごく心配するのに私は今日はちっとも猫のことが気にならず、きっと、そのうちお腹がすいて帰って来るだろうし、そしてまた病気になったとしても、それはあの子が選んだ運命なのだから、しょうがないだろうと思った。
今日は午後から小学校の、学級懇談会があり、夫はPTAの集まりがあり、二人とも留守にする。そんなわけで、出かける支度をしていたら、案の定、猫が戻ってきて玄関の敷石の上で気持ちよさそうに日なたぼっこをしていた。
布団を干してから、家中の掃除をして、洗濯物を干した。こういう日に洗濯や掃除をすると家の空気がしーんときれいになって、とても気持ちよいのだ。掃除をしていたらふと、私がこんなふうに掃除が好きなのは、母が掃除好きだったからかもしれないな、と思った。
我が家はとても貧乏だったが、母はきれい好きでいつも糊でぱりっとしたシーツに寝ていたし、家のなかはきちんと整理整頓され、チリ一つなく片づいていた。私が晴れた日には布団を干して、掃除をして、洗濯をすると清々しく気持ちよいのも、それは子どもの頃の記憶のせいではないだろうか。
もしかしたら、私のなかのずいぶんとたくさんの部分が、母によって作られているのかもしれない。母が遺した子どものころの記憶、それが、私という人間の根底の部分を作っているのかもしれない。そう思ったら、母への感謝の気持ちがこみあげてきた。なにが自分にとって、心地よく、なにが自分にとって楽しいか。私は天気の日に、家を掃除し、洗濯をすることだ。そしてお日さまの下に布団を干すことだ。
それ以上に楽しく、心清らかになることがないように思う。
戻って来た猫は、夫によって風呂場に運ばれ洗われて、ぎゃあぎゃあわめいていた。それから、がつがつエサを食べていた。よほど楽しかったのだろう。
ほんとうに空はきれいで、郵便局まで歩いた。湯河原は田舎だから道の途中で出会う人は誰でも「おはようございます」と声をかけあい、会釈をする。今日は日和がいいので、みんなの笑顔もとても穏やかだった。墓地を抜けて海岸通りまで降りる途中のお寺の銀杏が芽吹いていた。銀杏の芽吹きはすごい。無数の枝えだにぶわっと新芽がふく。その下に、花を散らすしだれ桜がうす桃色にきれいだった。