ちぐはぐで、受入れ難いものの味
2008年 04月 14日
http://kazetabi.weblogs.jp/
佐伯さんが言うように、今回の公演は役者が舞台の大きさを取りこめておらず、役者の身体が舞台空間と呼応できていなかった。声の大きさも動作も、いつもの自分達のアトリエの大きさから抜けることができていないように感じた。
身体に空間の大きさが刻み込まれてしまう……ということがあるのかもしれない。
だが、デッドゾーンに入った人間は、瞬時に空間を把握するとも聞いている。もっとも、そんなことはめったに起こることではないのだが、昔のシャーマンたちは、その状態に入らないと予言を間違って殺されるので「その状態に自分を置く」ことに命がけだったのだ。
シャーマニックなさまざまな儀式は「その状態」への方法論である。これはきっと演劇とも通じるものだと思うので、演劇に興味がある。
佐伯さんの感想を読んで、アニシモフさんの特徴をよくとらえているなあ、とにんまりしてしまった。そうなんだ、アニシモフさんはものすごく正直で、理念というものそもっている人だ。そして、彼はその自分をわざわざ日本という国に置いて、日本人の役者を使って演劇をすることで、自分を映そうとしている。それに対して日本人が応えているかというと、どちらかといえば、アニシモフ台風に翻弄されているという状態だ。
いったい彼が語っている思想がなんなのか。私にはぜんぜん掴めていない。わからない。それを知りたいと思うし、それに侵食されたいとも思う。自分の価値観を揺るがせるようなものを、求めている。そのためには、もっと踏み込んでみないと、わからないのだなあと、また、道のり遥かで、ため息が出る。
いまは、スタニフラフスキーシステムというのに興味があり、それを体験してみたいなあ……などと思っている。
なんつうか、どこかチグハグで、なんだか居心地悪くて、妙なもの。背中がざわざわしてくるようなもの。ぜんぜん気持ちよくないが、怖いようなもの。それが好きだ。
だから、そういう意味で、宮澤賢治の童話は、怖くて好きだ。
だけど、美しいとか、優しいとは、思えない。ぞっとするほど怖いから、だからきれいなんだと思う。アニシモフさんが、大幅にカットした童話の最後の部分は、わかりすぎて気持ちわるく、妙に救済されていてつじつま合わせで、あの部分を削ったということに関して、私は「すてき」と思うのだった。
最後に蛇足ながら、これは劇団の人が読んでいたら……と思って書くのだが、
カンパネルラが、天上に行ってしまい、暗転する。そして再び舞台が明るくなる。
そのとき、舞台のジョバンニはカンパネルラが消えたことをまだ知らない。という設定だが、この時、客席から見ていると、ジョバンニの身体が、もう消えたことを知っている動きをするのだ。いや、動きはないんだけどね、微妙な呼吸とか揺れが、ああもう消えたことをわかってて演技してるなあ、という感じなのだった。
ここはすごく、大切なところで、ジョバン二を演じる人は、カンパネルラがいると、信じて自分を騙さなければいけない。でも、それができてないんだ……。
このシーンを見ながら、静かな演劇ってのは、難しいなあと思った。
がんがんしゃべりまくり、動き回ってどたばたしてたら、こんなことどうでもいいのにね。

