ほんとうの幸せ


 昨日、「銀河鉄道の夜」の演劇公演を観たあとで、演出家のレオニード・アニシモフさんとアフター・トークを行った。ロシア人のアニシモフさんとは、もう何度も会って話している。そしていつも微妙に食い違う。彼はロシア人でロシア語で思考し、私は日本で日本語で思考する。それだけでもズレて当然である。しかし、大きくはズレない。なにか似ているものがあるのだろう。
 日本人と対話するとき、同じ日本語文化圏にいて、しかも指向性が近いと「お互いの目指しているものの確認」に終始してしまうことがある。満足感はあるが、あんがいと自分が見えない。
 
 アニシモフさんと話すと、相手との違いがより鮮明に浮き出す。彼は終始にこやかで楽しい人だが、自分のなかに確固とした理念があり、それをはっきりと打ちだしてくる。私はそれに違和を覚え、そして自分の違和がなんなのかをもそもそと探ろうとするのだ。

昨日もそうだった。宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」のテーマのひとつである「他者への奉仕」と「自己犠牲」について語り合った。

アニシモフさんは「人のために働くことが人間にとっての幸福」と語った。私は宮澤賢治の童話に描かれる「自己犠牲」が怖いのだと答えた。わかるけど、すごく怖い……と。
「チベットに自由を、と叫んで、灯油をかぶり自分に火をつける人を見たような怖さなんです」

「ランディさんにとっての幸福とはなんですか?」
と、聞かれたので、
「幸福かどうかを分けることが不幸のはじまりだから、幸福について考えない」
……というようなことを答えた。正直なところ、私は自分が幸福かどうか、問うことがほとんどないし、幸福になりたい、という漠然とした願望ももったことがないと思う。そのことに関心がないようだ。私の人生を知っている読者は「不運にめげずによくがんばりましたね」と言ってくれるが、どのような状況であれ、自分を不幸か幸福かで分けたことがなかった。そういう発想がない……のかもしれない。まあ、その尺度を使えば、簡単に不幸のほうに入ってしまいそうだし。

家に戻ってきてからも、しばらく今日のアニシモフさんとの対話について考えていた。自分とは違う強烈な存在感に出会うと、自分についてよく考えるようになる。だから、私はアニシモフさんが好きなんだろう。

もし、目の前に、お金がなくてお腹をすかせて死にそうな人がいるとする。私はその人のために、お金をあげるか、食べ物をあげるか、あるいはなぜこんな状況になったのか話を聞くか、とにかく、助けてあげたとする。

私から見れば「見知らぬ行き倒れを助けた」ということになる。相手から見れば「見知らぬ人から助けてもらった」ということになる。

でも、それを天の目で見たらどうだろうか。
私はその、行き倒れの男と出会って、慈悲を行う機会を得たことになる。私が誰とも出会わなければ、満ち足りている人とだけ出会っていれば、私は誰かのために働くことができない。その男の存在によって、私がなにか精神的な糧を得ているとするなら、男は行き倒れることによって人に施しているのであり、天の目で見たならば、その男の価値も、私の価値も、まったくおんなじなんだろう。

施す人と、施される人の価値が、無に帰する。そのようなことが起こったとき、初めて私は「してあげた」という親切心ではない、もっと、あるがままの、よいもわるいも越えた、人との関わりを結び、ほどくことができるのだろう。次の瞬間には、もう、施したことすら忘れてしまうようなもの。そのことに縛られない、無意味な慈悲というものが、あるような気がした。

そのような、慈悲心をもちたいと、自分が願っていることにも気がついた。
願うということは、つまり、まったくやれていないということであるが、いったい、わたしはなんでそんな願いをもっているのだろう……、とまた不思議になった。
そんな願い、いったい、いつもったんだろうか。
わたしのなかの、どんな自分が、そんなことを考えているんだろうか。

不可思議。
by flammableskirt | 2008-04-13 09:45

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