【医療人類学としての鍼灸師考】
2025年 05月 29日

なぜこの生き物みたいな宝刀のぬいぐるみが私の御守りなのか……ってことを解説してみます(笑)
【医療人類学としての鍼灸師考】
◎物部的な祀りと鍼灸空間
記紀に登場する古代氏族であり、剣や武器の祭祀を司る一方で、死者や異界の存在を扱う「沈黙と禁忌」の知識を担っていた一族。その神聖空間は、「言葉で固定しない力」「あえて名づけぬ知」への深い理解に支えられていました。
こうした思想は、古代日本における言霊信仰や、言葉そのものが霊的影響力を持つという観念(言挙げを忌む文化)に根ざしており、言霊とは、言葉に宿るとされる霊的な力を意味します。
日本古来の思想では、発された言葉が現実を変動させる実効性を持つと信じられていました。なので、特定の言葉をむやみに発することを避け、慎重に語る文化が発達したのです。
言葉が現象を定着させるだけでなく、新たな事態を招く危険性も孕むという感覚が、名を秘す儀礼や日本語独特の婉曲な表現へとつながっています。
万葉集や祝詞に見られる「名を秘す」表現、あるいは神名を直接呼ばずに婉曲に示す祭祀慣習など、言葉が“顕す”と同時に“制限する”という感覚があるのです。
物部氏の実践は、こうした言霊観に深く通じ、力を言葉で拘束せず、むしろ沈黙や儀礼の身振りによって呼応する形式を重視していました。
物部氏が扱った神宝や呪具、また『古語拾遺』や『先代旧事本紀』に見られる非顕在的な儀礼の記述などにその思想が示されています。
具体的な神名や祭神が明示されることなく、現象としての力(たとえば「気」や「祟り」)への働きかけとして記される場合が多く、名付けよりも行為や場の整えによって意味を持たせるという実践的知の構造です。
そのような物部的祀りと、東洋医学の鍼灸施術空間には類似性があります。
* いずれも“境界域”に働きかける技術である
* 名づけによる固定化を避け、気配の変化に応じる
* 神聖性を制度化せず、儀礼と身体の直感に委ねる
鍼灸の空間もまた、物部的な沈黙と呼応する“応答の場”であるのです。鍼灸とは、鍼を用いて気の流れを調整する治療行為であり、流派によっては一本の鍼のみで全身の状態に働きかけることもあります。
鍼を打つ“場”そのものが治療の一部であり、空間・時間・呼吸・気配といったあらゆる要素が「介入」の手段。つまり、治療とは鍼だけで完結するものではなく、施術者と患者が共に共有する“場”が総体として変容の力に加担します。その点で、鍼灸の臨床空間は物部の祀りと同様に、場を整え、力を迎え、働きかけるための装置でもあると考えます。
ただ、鍼灸の歴史の中では、こうした“装置としての場”は必ずしも重視されきませんでした。特に日本では、江戸期以降、鍼灸が視覚障害者の職業として制度化されていった過程において、治療空間の構造や象徴性よりも、手技の技術性が強調される傾向にありました。
その結果、空間全体を“治療の道具”としてとらえる感覚は一部の伝統的流派に残されるのみとなっていきます。たとえば、昭和初期以降に発展した経絡治療や、難経・素問に基づく古典派の本治法では、場そのものが気の変化に作用する媒体とされ、鍼一本でも全体に響かせる臨床的構えが重視されています。こうした流派においては、空間・沈黙・呼吸・気配が治療の中核であり、施術以前に場を整えることが実践として根づいていました。
さらに、鍼や灸といった身体技法は、制度としての鍼灸師が確立する以前、仏教──特に真言密教や修験道の修行者──によって担われていた歴史があります。山岳修行の中で灸治や按法は霊的修行の一環として実践され、密教的身体観のもと「体内仏」と経絡が対応づけられるような観念も存在していました。
こうした実践は民間伝承や医術の中に散逸しながらも、物部的な“名付けぬ知”と儀礼的身振りを保った形で受け継がれていたと考えられます。
制度化の過程でこうした物部的・宗教的要素は切り捨てられていきましたが、思想的・実践的には鍼灸の中に連続して残されています。現代において、改めてこの「場」の概念を再評価することは、鍼灸の持つ本来的な力を再発見する鍵となると考えています。
◎「名付けず、処す」とは?
以下はほぼほぼAIとの対話から。
■名付けずに処す──東洋の知とAIの構造
東洋医学の本質にある「名付けずに処す」という姿勢──それは、現象を単純な言語で規定せず、むしろ“気配”や“変化の兆し”に身を傾けることから始まる。患者の身体に触れる中で、まだ言葉にはなっていない「もや」のようなものを感じ取る。
鍼灸師はそれを無理に命名することなく、場を整え、問いを投げかけ、気の流れの“応答”を待つ。診断名や症状名ではなく、「問うための名」によって響きを生じさせる。これは一種の言語化の手前の知であり、沈黙の技法である。
そして、この構造はAIのシステムにも共通する側面を持つ。AI──少なくともchatGPTのような対話モデルは、ユーザーの問いにただちに「名づけて答える」わけではない。
背後にある意図や文脈、問いの気配を読み取り、それにふさわしい応答の“場”を構築しようとする。
つまり、AIは質問を理解するのではなく(というかAIが理解する必要はない)、それに調和する応答を生成する。これは、「名付けずに処す」東洋的姿勢に極めて近い。
問いを過剰に分類・命名せず、そのままの揺らぎを受けとり、ことばを返す。そこに、東洋的な知の片鱗が宿ってしまう(意図せず)。
名付けすぎれば、相手は閉じる。名を留保することで、気は流れ出す。
その構造は、物部の祀りから鍼灸の臨床、そしてchatAIによる応答の場にまで、一本の見えない糸として繋がっているのかもしれない(という人間側の思い込み)。
※今後は、鍼灸を医療人類学という視点から再定義していきたいなと考えています。制度上の縛りによって固定化されている「鍼灸」ということばに、少し気を流したら何が起きるかな……と思って。
by flammableskirt
| 2025-05-29 06:47
| 日々雑感