毎日、誰かの命日


彼女には、私たちが「気が狂っている」みたいに見えるんじゃないかなあ。
声って……感情が乗り過ぎていて、その声音に、躍らされているようなところがあるよね。なんていうか……私たちって、ずーっと安っぽい演技していて、シラフじゃないって、ひろえさんを見ているとわかってしまうんだ。
「あの人は、何者ですか?」って最初に聞いちゃった。気になってしょうがない。だって、彼女は正気で舞台にいるから。演技をしないんだ。そういう俳優さんって、めったにいないんだ。そのまんまで舞台の上にいて、すごく静かで、周りの人のことをよく観てる。
声を発する時、私たちは自分の声に酔っぱらってしまって、自分の声で感情が昂ぶると、もう人のことなんか見えなくなっちゃうんだ。舞台でも日常でも同じ。っていうか、しゃべるということが慣例化しちゃっていて、しゃべる時もどこかで見た感情の模倣をしてしまう。それが演技だとも気づかず、自分のありのままを置き去りにして、笑ったり、泣いたりしているけれど、本当に笑う場面なのか?いま、本当に悲しいのか、辛いのか?
「ひろえさんは、聾唖の俳優さんです」と聞いて、そうなのか!むしろ聾唖だから、ああやって正気で舞台に立っていられるのか!って衝撃だった。
「彼女が、とても静かで、深くて自分でいてくれるから、死者の世界と現世が繋がったんですよね……」
ひろえさんは舞台で声を発しなかった。なのにその表現力は圧巻で、彼女が見えている世界を私も見たし、その身体はしなやかで軽くて、雑さがなく、無駄がなく、ほんとうに……この世のものではないみたいだった。
芝居の間中、ひろえさんに釘付けだった私は、あんなふうに存在できない自分がなんだか恥ずかしいような、悲しいような不可解な気持ちになっていた。なんて、うそっぱちなんだろう。私の声や、しゃべり方、ふるまいは……。クソ下手な演技をいつもやってる。
彼女にはどう見えているのかなあ。この世界が。人が。社会が。
演出家の司田さんは「ひろえさんに自分の舞台を観てもらいたいけど、どうしたらいいんだろうって考えて、ひろえさんと一緒に舞台を創ってしまった」って言っていた。
その発想は、すばらしくて本当に新しい舞台が生まれていた。とっても大変だったと思うけれど、手話と言葉が融合して、あの世とこの世がつながった舞台になっていた。
今日もやってます。明日も。
観に行ってみたらいいと思う。
自分が、気が狂った人みたいに動いていることが、少しわかるかもしれない。それを死者がどんなふうに見ているかも。
不思議なリアリティに充たされた空間だった。演劇っていいな。
入谷の鬼子母神の近くの小さなアトリエです。
まだ少し残席あるらしい。


by flammableskirt | 2025-02-15 09:33 | 日々雑感

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