きれいなからだ
2024年 09月 25日
今年に入ってから、練習のために友人、家族に触診をさせてもらっている。まだ学生の私の練習につきあってくださる友人たちには感謝しかない……。
体調を相談されると、なるべくお住まいの近くの信頼できる鍼灸院をご紹介している。……で、わかってきたのだが、鍼治療を受ける前の身体と、何回か鍼治療を受けて体調が改善した身体は、明らかに違うのだった。「きれいな身体」になる。
この夏、リコーダーの合宿に参加した。全体練習で、30人ほどの奏者がリコーダーの音を合わせた。同じ「ド」の音を出しても、リコーダーは吹き方によって音程が微妙に異なる。その濁った「ド」を本村睦幸先生が調整していく。「もう少し強く…、ちょっと弱く……」と。そして、全体の音が揃った時は……同じ「ド」なのに透明感と抜け方が全く違うのだ。その違いにびっくりすると同時に、そうだ、これが「きれな身体だ!」とわかった。
通りがいい感じ、抜けがいい感じ、透明感がある。そういう身体になる。実際にそうなるというのではなく、美しく調和した「ド」を聞いた時と同じような感動を受ける身体……ということだ。
不思議なのだが、単独で「ド」を吹いても絶対に感じることができない「透明感」が、全体が調和した時に出現する。震えるようなすばらしい抜け感なのだ。
たぶん、鍼灸で身体のバランスをとっていくと、このような調和して抜けた感じの身体になるのだ。通りがよくて、爽やかで、透明感がある。
面白いことに「合奏」で調和が取れているときは「自分の音は聞こえない」と本村先生は言う。「自分の音が聞こえるようでは音が強すぎです」とのこと。全体に溶け合っていることが大事なようだ。
「通りのいい、きれいな身体になっています」と、言っても本人はぜんぜん気づいていないことの方が多い。そんなものなのかもしれない。
通りの良い身体で思い出すのは、村上光照老師だ。
亡くなられたけれど、あれほど美しいからだの人はいなかったなあと、今になってしみじみ思う。老師は座禅の天才であったが、座禅を続けるとあのように調和が取れた身体になるのだろうか。
実際、老師はさしてお風呂に入っている様子もなかったのだが、全く匂わないのだ。老人臭もない。いつも風呂上がりのようにさっぱりしていて、なんだか光り輝くような顔色。歯は虫歯だらけなのに口臭もなかった。不思議でしょうがなかった。なんでこの人の身体はこんなに透明感があってきれいなんだろうか?
認知症になって、よくズボンにおしっこをひっかけたりしていたのに、それでも匂わないし、全体の印象としてこざっぱりとしていてきれいなのだ。
聖人は身体を見ればわかると思った。通りがいい。すかっとしている。透明感。私にとって聖人とはきれいな身体の人だ。見てくれとか、格好ではない。通りの悪い人はすすけている。顔を洗ってもすぐ汚れた感じになる。
市井の人であっても、うつくしい身体の人がいる。たくさんいる。そのことに意識が向き、よりわかるようになった。電車に乗っている時、うつくしい身体の人がいると、その周囲だけ気が整う感じだ。
細胞が調和しているのだなあと思う。健康というのではない。バランスが取れている。どこか一ヶ所が大声を出しているのではなく、全体が全体の音を聞こうとしている。そういう感じの身体なのだ。
身体を診せてもらい、通りが良くなっているとうれしい。きれいな身体になってきたなあと思う。初めて実感したのが「リコーダーの合奏」であったので、その影響か、脳はきれいな身体を音に変換して伝えて来る。
きれいな身体は、美しい笛の合唱として感じる。とても気持ちいい瞬間だ。全体的な身体の調和を、私の場合は音を道しるべにして探っている。
感覚を使うこと、絵や音楽、楽器の演奏、そのような事のすべてが、見えない世界を知るための道具になっていく。そういうとき「人間に生まれてよかったなあ」と思う。すごい能力を授かっているんだ……。
写真は、在りし日の村上老師。
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とてもいい雑誌です。
by flammableskirt
| 2024-09-25 16:35
| 日々雑感