クリエイティヴ・ライティングの講義では「感情を表現する時は、身体感覚を使うように」と伝えている。「悲しい」「淋しい」「怒った」など、抽象的な言葉を使わないように……と教えている。
感情は、身体感覚についた名称だと思ってきたが……、この感情というものがめちゃくちゃ身体と関係していると東洋医学は考えており、五臓にはそれぞれ関連する感情が割り当られている。
東洋的身体は、腸が煮えくりかえったり、怒髪天を衝いたり、肝を冷やしたり……と、感情とがっつり結びついているけれど、いったい感情って何なのだろうか? 身体感覚に後付けで名前をつけたんだろうか?
恐怖……というのは、直接的に生命の危機を感じた時に起きるものだとわかるけれど、他の感情は意識が複雑になってから生じたもので、特に他者に対する「怒り」なんて、動物は感じるのかな?
怒りは、ある理不尽さに対して生じる感情のようだから、かなり複雑な関係性を認識できないと起きないんじゃないか。感情発生の歴史なんて、誰かがとっくに研究していると思うのだが、私は今日、たった今、ふと疑問を持った。
慈悲は……感情なのだろうか。仮にそうであるとしたら慈悲を表現する身体感覚とは、どんな感覚なんだろうか。
若い頃に「至高体験」という本を読んで、人間が神を体感した時にどのような感覚を覚えるか……というのを知った。そういう体験をしてみたいものだなあ……と思っていたが、それは、メキシコでマジックマッシュルームのセレモニーを受けた時にわかった。
ああいう体験ができたら、ちょっとした病気は治癒しちゃうよな〜と思う。最近、末期がんの治療のためにある種の幻覚ドラックが有効であることがわかり、スイスあたりで研究が進んでいると聞いた。そりゃあ、有効だろう!
どうやら深い瞑想などでも、同じような感覚を得ることが可能らしい。残念ながらマジックマッシュルームには再現性はない。だけど、あの感覚を知っているのと知らないのでは人生観が変わる。それは確かだ。
どう言うのかな…慈悲というか、その感覚はものすごく微細だ。逆に怒りとか、憎しみは大ざっぱでべとべとしている感じだ。だから、身体に沈着してしまうのかもしれない。感情にも濃淡があるようだ。
悲しみ……というのは、これはとても微細な感じ。だけど、悲しみに他の感覚が結びついてベタついていることの方が多いかもしれない。怒りとか……そういうのとくっつくと、一緒になって沈着しちゃう感じだ。
べたべたしたねちっこい感情は重さもある。だけど、微細な感覚はとてもとても細かくて軽くて、重くてべたついたものを水みたいに薄めて、溶かして、一緒に蒸発させてしまうような感じなんだよなあ……。
基本的に身体の中を巡っている気は、流動性が高くて微細なのだ。それに対して、感情という気はわりと重くて粒としてはデカい感じだ。洗練されていない……っていうか……。野性的っていうのかな。
マジックマッシュルームでトリップした時に、感情宇宙の外側に出てみた。そこは……とっても静かだけど、なんだか退屈だった。その時に初めて、感情はアートの源泉なんだなーって感じた。色や、メロディは、感情と同じなんだなって。ものすごくたくさんのグラデーションがあって、とてつもない組み合わせ可能性があって、流動的で美しいものなのに、思考ってヤツがそれを制限しているんだ、みたいなことを感じたっけ。
精神科医のユングは、感情を合理的判断機能として分類した。確かに、人は好き嫌いでさまざまな事を判断する。それは思考を使うよりずっと早い。だけど、感情を使った判断では、結婚相手は決められても、戦争は止められない。ようはバランスの問題だ。
だからユングは、人生の目的は感情と思考と感覚と直感がバランスよく機能するために自己を成長させること……とした。
東洋医学は面白くて、この感情とか思考とか感覚とか…うまいこと五臓に当てはめちゃってる。で、五臓のバランスを取ることで、これらの抽象性の高い概念までバランスを取っちゃう……という発想だ。
でもまあ、一番、取り扱いが難しいのが、やっぱ感情だなって思う。身体感覚と直結してくる。……それを逆手に取って、身体から感情にアプローチするってのもアリなんじゃないか?と思うけれど、東洋医学はそれをあんまり良しとしない。
なぜか……っていうと、東洋的には「いろいろあるけど、いま。こうしていることの全体性はすばらしい」って発想なんだよね。だから「この目的に向ってもっと良くしましょう」って感じじゃないんだ。
いま、このバランスでなんとかなっているそのことがすばらしい。みたいな……。まず、全体性でもってガツンと存在を認めちゃう。でまあ、あとは流れのなかでの微調整……みたいな感じ。
若い頃、ユングが提唱する自己実現の過程にめっちゃはまってたけど、そしてもちろん、ユングloveなんだけど……、東洋ってもっとすげーな、って改めて思うんだよね。「いまこうして生きているということ」の全体性を、受け入れちゃう感じ? そこには「必ずみんな死ぬし」ってのも含まれてる。
それでいて、シンクロニシティなんてのは「確率論」で説明しちゃうのが東洋。偶然の一致も太極における発現可能性の一種、当たるも八卦、当たらぬも八卦なんだよな。
物理学者のニールス・ボーアやユングが「易」の研究に没頭したというのも、わかる気がする。
東洋思想は「結果」を出さない。易で出る掛は「プロセスの一部」でしかない。
このごろ、プロセスという言葉もなんかズレるな、って思っている。やっぱ「縁起」が一番しっくりくる。過程……だと一本の路線みたいじゃない? そうじゃないんだよな。もっと織物っぽい。しかも生きてるっぽい。全体が関連しあっていて、全体で動いている……。その中で微細なものは伝播しやすい。粗いものは沈着しやすい。そんな感じだ。
あらゆるものすべてにグラデーションがある。ぜんぶ、境界がグレーで、切れ目がわからない。だから、切り分ける機能しかない言葉では表現が難しい。文章にするとニュアンスは伝えられるが、やっぱ相当にズレていく。
日々、鍼とかツボと接していると、なんかこれまで言葉にできなかったことが、こういうことかな?って感じ取れてくるのが不思議。かなり楽しいよ。……楽しいという感情は、やや上がり気味になる(笑) よって楽しいことは、ちょっと疲れる。