
明け方、目が覚めてしまって……亡くなった友人、ピオ・デミリオのFacebookを見ていた。世界中のいろんな場所で、いろんな人に会っているピオの写真を見ながら、いま私と同じようにこのページを見ている人がいるんだろうなと思った。
ピオは、すばらしいジャーナリストだった。彼はその「存在のしかた」で取材する人だった。どんな人のところにも彼らしさで飛び込んで行き、かなり強引なのに憎めない人だった。人としての誠実さや、他者への思いやりが滲み出ていて、チャーミングなのだ。
福島原発事故から数ヶ月が経ったある日、私はピオの誕生日のディナーに招待された。ピオは友達を招待してパーティを開くのが大好きだった。めちゃくちゃ気前のいいイタリア人、だけど倹約家。彼のお金の使い方には育ちの良さが感じられた。
このディナーには当時の首相だった菅直人夫妻がいた。私の隣は南相馬の桜井勝延市長だった。なぜここに呼ばれたのかすぐわかった。ピオは福島第一原発事故で南相馬が孤立した時、桜井市長のYouTubeメッセージで危機を知り真っ先に取材に駆けつけたジャーナリストなのだ。彼は福島の現状を日本のマスコミよりも早く、現地から世界に報道した。そして、当時の首相、菅直人氏に突撃取材をし、その後もずっと交流を続けていた。
私は、ピオの案内で何度か福島に取材に行きその体験をもとに本を書いた。ピオの取材力は圧巻で、地元の方たちともすぐ打ち解けていく。まるでモーゼみたいに、彼の前に道が開けるのを何度も見た。おべっかも、わいろも、脅しもなく、ただ、あるがままでいるだけなのに……。
まだ世の中が混乱している時に、誕生日ディナーに首相や南相馬の市長を呼んじゃうピオは凄いというか……。ようするに〈友達〉として招待しているのだ。6,7人がけのテーブルは個室ではない。そこそこ高級店だけれどイタリア料理だし、カジュアルな店だった。
店の前には、30人くらいの報道陣が詰めかけ、カメラを構えていた。首相夫妻が来ているのだから当然だけれど、誰もレストランの中に入って来ようとはせず、報道陣はただ、店の前でたむろしていただけだ。
「あれが日本のマスコミだ」とピオは笑って言った。
「自腹を切れば誰でも入れる店なのに、なんで客として入って来ないんだろうね、不思議だ」と。
「そうだよね、あそこで待っていて、出てきた総理の写真を撮って、それがどんな新聞記事になるんだろう?」
「堂々と入って来て、『やあ、楽しそうですね、何のパーティですか?』って挨拶をするような奴はこの国にはいない。個人では取材しないんだよ」
私は、ピオと出会って『取材』というものへの考え方が大きく変わった。どこにも所属していないから私は『個人』で取材するしかなく、それが強みなのだと知った。ピオのように大胆なことはできないが、私は私としてどこに行って取材してもいいのだ。その動機がエゴイズムからでないなら……と。
ピオは天然の人で、彼には愛と正義しかない。それは時として独断的であるけれど、他者のために自己犠牲を惜しまないその在り方は相手の心を打った。取材は「ネタ」のためではなく、「真実を伝えるため」であり、取材対象者には敬意を持ってフレンドリーに接し、長く交流し友人として大切にした。
誕生会ディナーが終わって私たちが店を出ると、一斉にフラッシュがたかれた。テレビクルーも来ており、家に帰ると「お母さんがニュースに映った」と子どもに言われた。
翌日の新聞には「菅総理が鰻と寿司とイタリア料理をはしごした……」みたいな見出しで記事が出ていた。そりゃあ、他に書きようがないだろうと思った。取材をしていないんだから……。
いろんな国の首相と仲が良かったし、ダライ・ラマとも友達だった。彼は愛されていた。その存在が……無垢だったから。純粋すぎて生き辛そうでもあった。破天荒な人だったが、自由の責任を自分がしっかり取る。そう……自由には大きな責任が伴うことも彼から学んだ。
ピオはめちゃくちゃユーモアのある人で、いつも笑わせてくれた。短いメッセージにあれだけジョークを詰め込めるんだから、本当に賢い人なんだと思う。頭の回転が早すぎて、時々着いていけなかった。しゃべっていると、彼の頭はどんどん予測の予測の予測を立てて明後日の予定まで見えている、そういう奴だった。
子どもたちを連れて遊びに来たこともあったし、ヴェネチアのピオの家に泊まったこともあった。いつも「親戚のおじさん」みたいな感じ。でも、私は……どこかで……すごく微妙にピオと距離を保っていたと思う。ピオが抱えている【何か】の圧がどんどん高くなっていく。ピオはブラックホールみたいにあらゆるものを吸い込んで、質量が上がっていく感じだった。
留まることなく世界を吸収している人……に畏怖のようなものを感じた。たぶん、ある年齢からもう私は世界をこれ以上知らなくてもいいと思ったのだ。もっと、自分のことを知りたいと思ったのかもしれない。外に拡散していくよりも……。
いつだったか……まだ、安倍首相の時代の記者会見で、ピオが安倍さんに質問したのをテレビで観た。よれよれのシャツにジーンズ姿のいつものピオは完全に場から浮いていた。ピオは日本語で強烈に皮肉った質問をした。しかもユーモアまじりで。どんな時もピオはピオだ、とテレビの前で笑った。
ピオに同行したイタリアの講演旅行以降、次第にピオと会う機会は減っていった。共通の取材目標が消えたからだ。私たちはお互いの新しい課題を見つけて、年の一度か二度、顔を合わせる程度。コロナが始まってからは一度も顔を合わせていなかった。
昨年末に久しぶりに伊豆に来たから、と立ち寄ってくれた時は「携帯酸素」を抱えていた。びっくりした。ピオの状況も「体調が悪いようだ」くらいしか知らなかったんだ。(SNSを通して友人のことを知りすぎないようにしていたから)
状況を把握していない私はわりとのんきだった。ピオが「田舎に移住したい」と言うので、近所の借家を探したりしていた。「田舎暮らしをして農業をやる」と言うピオに「なにそれ、もう隠居する気?」と笑った。
ピオは相変わらずピオだった。わんわんと出迎えたうちの犬を見て「かわいいね、今夜のおかず?」と言った。犬はすぐピオになついて、ずっとピオの足下にいた。私は真剣に物件を探して送ったが、ピオからダメ出しが来た。「イメージじゃない、こんな家がいい」
送られて来た写真は、ど田舎のだだっ広い原っぱに立っている古民家だった。注釈があった「近所にスーパーと病院が必要」引っ越しなんかできる様態じゃないだろう!と思ってはいたが、ピオなら希望の物件を探し当てて引っ越しをしちゃうかもな、とも思った。
きっと、いい物件がなかったんだろう。