
ざんねんな日本
気持ちを言葉にするのは難しいことだ。それが出来るのが作家だろう!と言われそうだが……気持ちを言葉に出来ないことのほうが圧倒的に多い。最近、わきあがってくる感情は特に複雑怪奇で途方に暮れる。
複雑怪奇な感情を安易に言葉に置き換えると「怒り」になってしまうことが多い。多くの場合「怒り」は感情の蓋みたいなもので、怒りの下に得も言われぬ思いがある。なので、怒りを表してしまうと本当のことを伝えにくい。
「残念だ……」という感覚が頻繁に現れるようになったのだが、この「残念」という言葉も一筋縄ではない。言葉は生き物としてアップデートする。たとえば「ざんねんな生き物」という本が売れているけれど、あの「ざんねん」のニュアンスは、とても今日的だなあと思う。
かつて「残念」は、悔しいという意味に使われることが多かった。たとえば「もう一歩でうまくいったのに、ちくしょー。残念だ!」みたいな……。けれど、このごろなんか違うような気がする。
「ざんねんな生き物」のニュアンスは「いいところもあるんだけど、その良さを相殺してしまうほどの短所を持ち合わせているためになんか本流から外れていて悲哀がある」「もはや全く合理的ではない方向に進化していてお気の毒ですらある」……みたいな感じだと思う。
この「ざんねんな感じ」は、国会とか、政府とかに関する報道、あるいは「国葬」とか「経済対策」とか、そういうニュースを聞くたびにわきあがってくるもやもや……と近い。
「ざんねんな政治」「ざんねんな国葬」「ざんねんなコロナ対策」「ざんねんな経済対策」……。「ざんねんな国民」としての自分。「ざんねんな国、日本」みたいな……、最近のもやもやはこんな感じで、せつない……。