新しい継承のかたち
2020年 08月 07日
新しい継承のかたち
あくまでも私にとって、と強調するが、継承の最も困難な点は「同じことを言い続けなければならない」ことだった。体験者と会い、記録を読み、学べば学ぶほど事の重大さを理解していく。
私が初めて取材でヒロシマを訪れたのは2000年の8月だった。あれから20年が経ち、私はあの頃と同じことを語ることができない。学べば学ぶほどに少しずつ考え方も感じ方も変化していった。
これまで、語り部の方たちは他者に継承するために「長期間同じ話をすること」を強いられてきた。事実が変化しては困るからだ。
この現実が、被爆体験や戦争体験を継承してきた人たちの内面にどんな圧をかけてきたのか?と想像する。
悲惨な体験を繰り返し、同じ口調、思いで語り続けること、それを人間に強いるのは、もしかしたらひとつの暴力ではなないかと思うに至った。それを責任として被害者である方たちに担わせていいのだろうか?という疑問も生じた。
語り部をつとめてこられた多くの方たちに、ただもう感謝と敬意をお伝えすることしかできない。ほんとうに大変な役目を担っていただき、ありがとうございます。
戦後75年、戦争体験、被曝体験は、体験をしていない者たち、つまりは体験者のみなさんのお話を直接に聞いてきた世代である「私」に引き継がれていくわけだけれど……、その時に、私がとまどうのは、私の感じ方、考え方が日々変化してしまうことなのだった。毎回、同じことを同じように語ることは難しい。
記録や映像は残っている。さまざまに被曝者の証言は記録されてきた。
では、その証言と、生の人間が語ることは何が違うのか?
「話す」でもなく「しゃべる」でもなく「語る」時には、その人の思いが強く入る。もしかしたらそれは科学的な事実とは違うのかもしれないが、その人のリアリティ、個別のリアリティが、語りにはある。
では、私が語り部となるとき、私のリアリティはどう発揮されるのかと思う。私のリアリティは夢の中の出来事のように、私にとってリアルであるが、他者にとっては意味不明かもしれない。
それでも、私のリアリティで語ることが、私にとっては重要なのだが、それは社会的に許されるのだろうか? いまのところ許されていないんじゃないか?
継承において、そういう不安、疑問を抱えてきた。継承を「1人が多くの聞き手に話す」という形式で行われることにはもはや限界が来たと思う。
体験していない者がどんどん増えていくなかでの継承は、わからないことを前提としてみんなが集まって共有しあう……という形しか取ることができないのではないか?
今回、zoomを使って、わからない者同士が知りえたことをシェアしあうという、新しい継承の形を模索している。少人数の談話会を開催し、それぞれのリアルをシェアしあう。
お互いの話が終わったあとに、場に立ち現れてくるものは、新しいリアルだ。それを体験すること。その体験を積み重ねていくこと。難しいことではない。誰かが思い立ったら声をかければ、距離を超えて集まれるツールがいまある。インフラが整ってきた。
継承の形は、オンラインによって変わる。
個々のリアリティのシェア、結びつきによって立ち現れる新しいリアルの体験。その体験の蓄積が集合知になっていく。それがこれからの継承のかたちではないかと思う。
