村上光照老師のこと
2018年 04月 01日
村上老師を紹介するときはつい「京大で物理学を学んだ方で、あの、ノーベル賞学者の湯川英樹先生の教え子……」という浮世の話をしてしまうのだが、村上老師が高学歴だから偉いわけではなく、むしろそんなこたあどうでもいいはずなのに、紹介するときにこの経歴を人にしゃべっている自分が恥ずかしい。でも、つい、これを言いたいのだから、私もあんがい学歴主義の人間なんだなと思う。

村上老師の噂は、数年前からあちこちで聞いていた。Eテレで宗教者が紹介される番組「心の時代」にも二回、登場していると聞いた。「凄い人」「もう悟っちゃってる」「聖人」「ひとところに定住しないで、あちこち旅をしながら暮らしている」
ふーん。どうやって食べているんだろう、と、下世話なことを思った。お坊さんだからお布施というので食べているのかなあ。
初めてお会いしたのは2012年頃だろうか。「サンガ」という仏教関係の雑誌で対談をさせていただいた。もはや仏教界のレジェンド的存在(らしい)村上老師とお会いするのはドキドキした。対談場所は伊豆の山奥の料亭民宿。こちらのご主人が村上老師を招いては法話会をしているという。なるほど、そういう「村上老師ファン」が村上さんを支えているのかしら。まあ、私の考えることはどこまでも俗人だ。(あとになって知ったが、老師はお布施として渡されるお金は「仏の功徳」のため使い自分の生活費にはしない。子供に勉強を教える寺子屋などして生活費を得たりするそうだ)
「村上老師の坐禅はすごい」と言われても、坐禅についてもよく知らないのだからなにがすごいのかすらわからない。とにかく、「はじめまして、こんにちは」ということになった。僧侶という方々にお会いするときは、緊張する。なぜ緊張するのかわからないが、緊張する。緊張しなくてもいいだろうと思う。仏の教えを説く優しい人たちなのだから。失礼な私を怒ったりしないだろう、でも、実際はかなり緊張して敬語を使いまくりだ。村上老師は、当然、おじいちゃんで、頭がつるつるで、気難しそうだった。なんか怖いなー。これが第一印象。
こういう人を世捨て人っていうのかな? 奥さんも子供もいなくて全国を行脚しながら暮らしていて、年に数ヶ月は坐禅のためにお篭りをして、好物は大根の菜っ葉だって言うし、いったい何がたのしみで生きていらっしゃるのかしら。俗人はあくまで俗なこと考える。「恋愛とかしたことないんですか? 女の人を好きにならないの? どうしてお寺で偉そうにしていないの? 本当に悟っているんですか?」もう、失礼ったらない。でも、素朴に疑問だった。(だいたい、ほんとうに、坐禅で悟れるんかい?)村上老師は、頭が良い人なのだと思う。パッパッパと天才的にいろんなことをひらめき、なんでもよく知っている。
でも、そういう人は世の中にはいくらでもいる。そして頭がいいからって悟ってはいない。かの梅原猛先生だって天才的に切り返しがうまくて記憶力がいいし、仏教大好きだったけど、やっぱり悟ってはいない(んだろう)。悟りって、なんなのかなあ。村上老師との、第一回目の対談は、ちんぷんかんぷん。何の話かさっぱりわからなかった(笑)でも、そんなに怖い人ではなさそうだと思った。怖くはないが、ちょっと得たいが知れない。そんな感じ。まわりにたくさん人がいて、いろいろ気を使ったし、仕事だったし、村上老師をストンと素直に感じることはできなかった。

二回目の出会い。これもサンガが開催してくれた「対談」だった。そもそも、村上老師と対談できる人がいるんだろうか?話していてもまったく噛み合わない。でも、この時、初めて村上老師が「坐禅の姿勢」について教えてくれた。教える時は、いきなり別人になった。坐禅モードに切り替わる、というのかな。この人の坐禅の指導は確かに他の人と全く違う。……教え方がうまいし合理的だ。つまり、坐禅を知り尽くしていて、プラグマティックに教えてくれる。こういう人に坐禅を教えてもらったら、ほんとうの坐禅と出会えるかもしれないなあ、と思った。
対談が終わったあと、老師はサインを求めて来た人たち一人ひとりに、直感で歌を渡す。相手の顔を見てさらさら……その書も歌もすばらしかった。(うわー、この人、詩人だ)かなり感激。ことばのセンス、めっちゃいいじゃん。書もいい、味がある。老師はアーティストなんだな。対談のあと、親睦会があって近くの居酒屋に移った。わー、老師も居酒屋メニューとか召し上がるんだー。わりと庶民的。ちょっと老師が好きになった。
三回目の出会いが……思い出せない。絶対にもう1回くらい会っているはずなのだ。なぜかというと、老師の携帯番号も知っているし、住所だって知っているし、時々、電話でしゃべったりするし……。でも、いつ、どうやって、お互いの連絡先を交換したのかが思い出せない。どんな用事があって電話したのかも、忘れた。はっきりしていることは、遠慮なく電話をかけられる相手になっていたことだ。これはとても重要なことだと思う。人によってはかなり親しくなっても「電話なんかしていいかな?」と躊躇する場合が多いのに、老師にはどうしてか電話をかけやすい。かける時に緊張をしない。
で、昨年もふと思い立って電話をしたら、伊豆松崎にいるというので電車に乗って遊びに行った。遊びにと言ったって、いっしょにお蕎麦を食べて、松崎近辺をドライブして、翌日の朝またおちあって、近所の喫茶店でお茶をして別れただけなのだが。

待ち合わせをした場所に、老師がいる。座っている。ただいる、その感じがいい。待っているふうでもない。苛々しているふうでもない。なにもしていないけれど、ふわっとそこにいる、妙な突き抜け感。風景の一部、お地蔵さんみたい。老師はいつも「いやあ、世界がきれいだなあ」という顔をしている。こういう顔をする人を私はかつて見たことがあった。京都の認知症のグループホームに1週間ほど通って認知症のお年よりたちと暮らしたときのことだ。
重度の認知症のおばあちゃんは30秒前のことを忘れてしまう。そういう人は、好きなお菓子をもらったりすると、何度でも、何度でも、初めてお菓子をもらった時と同じに「うわあ!」と喜ぶ。桜なんか見た日にゃあ「なんてきれい、こんなきれいなもの初めて見た」と言って、歩みを止めるものだから散歩にならない。
村上老師って、そんな感じなのだ。老師はすごく記憶力がいいから、認知症のわけがない。だけど、ひとつひとつのことに「うわあ」と、びっくりしてなかなか目的地に着けないところがそっくり。世界を初めて見た赤ちゃんみたいなんだ。
私は、村上老師に聞きたいことはあまり、というかほとんどないのだけれど、昨年は「放射性廃棄物の最終処分をどうするか?」について議論する対話の場づくりに関わっていたので、そのことを質問した。老師の答えはぶったまげたものだった。
「放射能はなんとかしなきゃならない問題で、まったく研究が遅れてしまっていて困ったものだ。(なにか難しい物理学の専門用語をひとしきりつぶやいた後)私がこれから無害化する研究をしようと思っている」
いろんな人に会ったけれど「自分が無害化する方法を研究する」と言い切った人は初めてで、そう言われたら「よろしくお願いします」で終わりだよね。こんなふうに、たまに質問をしてみても話は続かず、一緒に焼き立てパンなどもぐもぐしながら「ここのパンはうまいんじゃー」と言って、おしまい、なのだった。私はこの、どうにも、何事にも、まったく深刻にならない、なりようがないのに前向きな、村上老師といるとものすごく気が楽だ。
「坐禅をすると、どうなるんですか?」と質問したら、「坐禅というのは、仏さまの姿を真似ること。仏さまの形になること。だから姿勢がとても大事。姿勢をちゃんとしないで何年、坐禅組んでも同じこと。姿勢が決ったら、すぐ三昧に入るけど、そこから先は魔境。魔境に負けたらダメね、でもまあ、それも一年くらいで落ち着くから」「その先は?」「仏さまの姿になって、仏さまの心になったら、慈悲の光が天地を突き抜けるように現われますから、もうなにもせんでよろしい。それはもう、浮世の物理法則を超えた次元のことだから、宗教しかできない」「だから、老師は、出家したの?」
ふふふ、と笑って無言。

今回、法話会を企画した森竹ひろこさんが「なんとか村上老師に坐禅の指導をしてもらえないでしょうか?」って言う。「うーん、ちょこっとならしてくれると思うけど、最初から頼んだら断わられてしまうかもねえ」駄目モトでお願いしてみると、かなり詳細に坐禅の姿勢を教えてくれた。本も書かない、弟子もいない、孤高の老師の坐禅指導。すばらしく貴重な機会だったと思う。でもまあ、教えてもらっても、その坐禅に入るためには二一日間の断食が必要で、半年は道場に通わないといけないという。
半年なら、坐禅をがんばってみたい!という人が会場に何人かいたけれど、どうかな。老師もお年だから、せっぱつまってやって来た人でなければ、きっと坐禅の面倒を見る気がないんじゃないかと思う。やっぱり、いろいろ捨てて、身ひとつで入って来いって感じだと思う。そして、コイツが捨てられるかどうかは、捨てた人から見れば一目瞭然なんだろう。捨ててよし、捨てなくてもよし。老師はそう思っているだろう。その身ひとつで受ける人生。「やっぱり来ちゃいました」という人しか、あそこには行けないだろう。それくらいハードルが高い山の中だ。
村上老師と久しぶりに一日を一緒に過ごして、やっぱすげーと思った。老師がなにもかも「田口さんにおまかせ」と言い、何も聞かないし文句も言わない。結果も気にしない。いつ帰れるのかとか、時間が長いとか、ギャラはいくらだとか、言わない。何時間長引いても、目の前に話を聞きたい人がやって来れば「今日はこういうことなんだな」と流れに乗る。三時間の法話のあと、さらに三時間も超過勤務をしつつ、表情ひとつ変えずにニコニコしている。疲れたとか、大変だとか、いったい何時に終わるんですか、とか、私ならきっと言うだろうことを、言わない。気にしていない。不平、不満、愚痴、なにも言わない。おいしいねえ、きれいだね、すてきだねえ、うつくしいねえ、かわいいねえ、あとは思いついたことを楽しそうにしゃべっている。あったかくてやわらかい慈悲の光を発し続けるって、これが坐禅の力か?
そういう老師と、一日を一緒に過ごしたあとは、ただただ、頭が下がる。ホテルまでお送りしたら21時半になってしまった。これから明日の荷造りをするのだという。お疲れだろうと思うが「いやあ、ほんまに楽しい一日だった」と言う老師に、頭がどんどん下がる。下げようと思ってそうなるんじゃなく、頭が重くて下ってしまう。いやあもう、めったにないけれど、九十度より下がった……。頭って、ほっておいても、下がるときは下がるんだなあと思った。
二胡を演奏してくれた横山茂登子さん、アオザイがすてき。

老師はおべんとがおいしかったと大変喜んでいました。感謝。
めっちゃおいしい身体がよろこぶお料理です→http://2bananeira.com

「スワリノバ」の代表 森竹ひろ子さん、ありがとうございます。
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