アール・ブリュットと私
2017年 09月 10日
「障害者芸術支援フォーラム アートの多様性について」の第二部のシンポジウムに参加しました。この会には、友人の美術家中津川浩章さんのご推薦で参加。共に出演する第二部の登壇者は、死刑囚の描いた絵の展覧会を企画している櫛野さんや、アール・ブリュット・ジャポン展で一緒にパリに行った社会福祉法人グローの斎藤さん。その他、障害者芸術に広くかかわっている方、障害者の描いた絵画を売っている画商の方など。
控室で初対面の方たちと挨拶。「今日はいったいどんな話をしたらいいのかしら?」と、それぞれが自己紹介をしているうちに、打ち合わせというものもなく会が始まりました。
こういうことはよくあるので、ぶっつけ本番でいいのだなと思い、第1部を見るべく会場へ。第1部に登壇されていた方はほぼ全員初対面の方たち。障害者アートに取り組んでいる施設の責任者の方たちなので「あ、あの作品のつくられた施設だな」「あの作家さんのいる施設だな」創作の現場ってどんな感じなんだろうな、と思いつつ議論を聞いていました。
最初は服部さんという方の基調講演で、この方は画家の山下清さんが日本の画壇や評論家からどういう扱われ方をしたのか、を話してくれました。山下清さんの生きた時代を少しばかり体験している私は、山下さんを「はだかの大将」として記憶しています。私は1959年生まれで、東京オリンピックもかすかに記憶にある感じ。子どもの頃、障害者差別はあったと思いますが、一緒に遊んでいた記憶もあり……。
覚えているのは見せ物小屋です。「へび女」とか「狼少女」という見せ物小屋が立ち、そこで客寄せをしている人も出演している人も障害者でした。私は母に連れられて神社の境内に行き「見せ物を見たい」とよくせがんでいました。小学校の低学年の頃の話です、とても興味がありました。「やどかり女」という見せ物が来たことがありました。「やどかりって……。どんな姿なのだろう?」と不思議でした。お金を払って中に入ると長い口上があって、やどかり女が登場するのですが、その方は今にしておもえば脳性小児麻痺の女性でした。場内は暗くてよく見えなかったので、いざって歩くだけの赤いセーターを着たやどかり女を、目を皿のようにして見つめた記憶があります。
女性は会場内をぐるりとはいずってから、両手をあげて拍手を求めるしぐさをしました。それで観客はしぶしぶという感じで拍手をしました。さらにもっと、というしぐさをしたので、私は精いっぱい拍手をしました。拍手を浴びた彼女はとてもうれしそうで、子どもだった私は、この一団の人たちは楽しそうだなと思っていました。
そういう時代、山下清画伯のことを私の母は「ちょっとかわいそうな人」として見ており、「でも一生懸命に生きていて偉い、知恵が遅れていてもああして絵を描いて稼いでいるのは大したものだ」という感想を口にしていました。
服部さんの話を聞いて、山下清さんが健常者の絵に近づくような……つまり、彼のオリジナリティを無視された指導を受けたことを知りました。でも、それは山下さんに限ったことではなく、あの時代の学校教育はそんな感じで、私も小学校の美術の時間に「この空のいろが黄色いのはおかしい」と先生から言われ、黄色の上から青を塗らされたことがあり、それから先生の顔色を見て絵を描くようになりました。
中学生になった頃に寺山修司さんの著書に出会い、高校の頃に寺山さんの映画や、天井桟敷の舞台を観ます。障害者も登場する舞台で、私には子どもの頃の見せ物小屋のように感じ、懐かしさと同時に不条理の世界に夢中になりました。あの「見せ物小屋」は私の原体験になっている、思春期のころは無自覚でしたが、今はそう言えます。
あの見せ物小屋の延長線上で、私は「奇異なもの」を見ることに関心を持ってしまうんだなと。幼い頃、なんの娯楽もなかった田舎にやって来る見せ物小屋は刺激的でした。決して上品とは言えない色彩や、調子はずれの音楽も、妙な口上も、なにもかも鮮烈で忘れ難く、母と二人で手をつないで入った暗い小屋の雰囲気が今も蘇るのです。
成長してから、障害者差別が見せ物小屋と結びつくようになったとき、この記憶はどこか後ろめたいものになっていき、だんだん思い出さなくなっていました。
「アール・ブリュット 交差する魂」展で、初めてアール・ブリュット作品に出会ったとき、見せ物小屋と再会したような気持ちになりました。寺山修司さんの世界を発見した時のような興奮に陥り、思春期が再燃したような。久しぶりに胸を射ぬく快感と衝撃でした。パワフルで、おどろおどろしくて、土着的で、ああ、これだ、これが私の原体験とつながっているものだ、と、狂おしいほど懐かしい感じなのです。
ちょっとすましたような、現代アートがさっぱり好きではなく、アートってわからない。アートっ興味ないなあ、と思っていたものですから、一気にアール・ブリュットの世界にのめり込んでしまいます。私にとって、それがアール・ブリュットであろうとなかろうと、自身の原体験と繋がっていくものであれば、よかったのかもしれません。
服部さんは、アート寄りの視点から、日本におけるアール・ブリュットの定義が曖昧であることを指摘しており、障害者芸術がアートの仲間に入りたいなら、現在のアール・ブリュットでは、障害者に寄りすぎて逆に弊害がある、とお考えなのかな、と、感じました。
アンダーグラウンドと呼ばれた演劇芸術が消えて以降、私は長いこと芸術に興味を持てなかった。あの時代の荒々しい息吹、エロスというか、カオスというかを、ちょこっと経験したことがある世代なので、なんかこう、現代アートはまったく自分とは相いれない感じでした。
私は「福祉」というジャンルから再発見されたアンダーグラウンド的なものに夢中で、それがアートだろうとなかろうとどうでもいい、というようなところがあり、どちらかといえばアートなんかに入らないほうがいいんじゃないか、アール・ブリュットはアール・ブリュットで、そういう表現として屹立してしまえば面白いな、くらいの立ち位置でいました。ある意味、観客の一人として、アール・ブリュットに巻き込まれていくことを楽しんでいた感じです。
アングラが現象であったように、アール・ブリュットも一つの現象として消えていくのかもしれない。アール・ブリュットという「現象」はすごい波及力をもっていて、日本の障害者芸術を一気に花開かせました。各地で埋もれていた作品が発掘され展覧会が開催され、旋風吹き荒れたという感じです。
だけど、「障害者芸術を支援しましょう」という流れが国や自治体を動かしていくに従って、私はだんだんアール・ブリュットに興味を失っていくのです。あまりに均質に全体的な力が働いていくと、誰もが無自覚なうちにある枠がはめられて、今風にアレンジされてしまうから、かもしれません。実際に、障害者アートはだんだんポップになってきており、その展示の方法も含めて、私が感じた「原体験」から遠くなっています。
アート作品としての市場や売れ筋を考えたら、やっぱりあんまりおどろおどろしいものはウケないだろうし、プロダクト化するなら無難にならざるえないでしょう。事業展開していくことで障害者の就労支援になるなら、それはいいだろうけれど、そこには私を揺さぶったものが消えているような気がしました。こんなことは個人の感傷だからどうでもいいことです。私は個人の感傷以外の思いがないのだな、そうだよ部外者だもの……と、またしてもどこか後ろめたい感じを覚えつつ服部さんの講義を聞いていました。
第1部が始まると、アール・ブリュットという名称の原義と日本のアール・ブリュットは違うということが議論されていました。たぶんアール・ブリュットという現象が起きたことで、さまざまな弊害も出ているのだなということが予測されました。でも、この名称のおかげでこれまで注目されることがなかった障害者アートが発見されたのだから、それはそれで良かったのだと感じました。
議論はわりと現実的なことばの定義や法案の解釈のような方向に行きました。でもたぶん、私も含めてそういうことに興味をもっている観客は少ないのではないかと思いました。もっと障害者アートの魅力が多角的に語られる場かと思っていたので、残念な感じもありました。多様性は作品に向けられていると思っていたのですが、作品の多様性に関して語られることはありませんでした。ですが、私が観てきたアール・ブリュット作品群は、ものすごく多種多様で、ぐりぐりと潜在意識を刺激してくるものが多かったから、異端としてのアール・ブリュットが語られないのはもったいないことでした。
第2部が始まりました。段の上に座り一人ずつ司会進行の方に質問されて話をする、という形式でした。対話というよりも、おのおの自分の話をする、ということですが、これも日本ではよくあることなので、司会者に指名されるまでは黙っていました。みんな映像資料など持って来ているのかな?と思ったけれど、そういうものを用意している方はいませんでした。
進行の中でいきなり「相模原のやまゆり園の事件についてどうおもうか?」という質問が出され、困ったな、と思いました。この話題は、アートの話をしているなかで、トピックスのように取り上げられるには重過ぎて、とても一言でコメントできる話題ではなく、答えようがなかったからです。この展開自体がとてもシュールに思えてきて、そのとたんに浮かんだのが「劇団態変」の金満里さんのことでした。態変は金さんも含めて役者全員が重度の身体障害者です。
金さんの劇団は「イマージュ」という雑誌を発刊していて、その雑誌に「相模原のやまゆり園について記事を寄稿してくれ」と、依頼され、執筆したのです。私は、金さんになにか頼まれると彼女の勢いに完敗してつい引き受けてしまいます。金さんはとてもナイーブな人でもあり、彼女のアンビバレントな人間性に惹かれていました。同時に彼女が取り組んでいる身体表現にも惹かれていました。ただ、そこには子どもの頃の見せ物小屋の原体験が潜んでいるので、ちょっと後ろめたいような感じもありました。
私にこの事件についての原稿を依頼してきたのは金さんだけでした。だけれども、私にはこの事件を小説にはできるかもしれないけれど、評論的な記事を書くのは難しく、たいへん苦労しました。
私は「原稿を書いてくれ」と頼んできた金さんから、事件への強い怒りと憤りを感じました。それが唯一、私が身体で体験した「相模原やまゆり園」でした。金さんを通して私に届いた……という感じでしょうか。なのでとっさに金さんのことが浮かんでしまったのだと思います。
そういうぐじゃぐじゃしたことではなく、もっとすっきりとした言葉で感想を述べるべきだったのだろうけれど、そういうことがとことん下手なものだから、ぐじゃぐじゃしたままをしゃべってしまい、聞いている人はなんだか訳がわからなかったろうと思います。
ああいう場面で、スパっと気が利いたことが言えるのは「テリー伊藤さんか北野武さん」という話しを聞いたことがありますが、ほんとうにあの人たちはすごいです。私はシャクを無視してしゃべるし、ことばの整理もとっさにはできないので、自分はほとほとシンポジウムには向いていないと実感した次第です。
会場にいた人たちに、もっとわくわくした話題が提供できなくて申し訳ない気持ちでした。まさかいきなり、見せ物小屋や寺山修司の話しをするわけにもいかず、自分のなかにあるアール・ブリュットは、福祉から発見されたけれど、支援の対象になっていくなかで消えていくものかもしれない……ということを、考えていました。でもそれは個人的感傷なのだよな……とも。
長く、アール・ブリュットを見続けてきましたが、それを作品化したことも文章化したこともなかったのは、私が書くと、きっと差別的なものになってしまうと危惧してたからでした。
あの見せ物小屋が来る時のぞくぞくするような興奮。ピエロの格好をしたせむしの人や、指の数が多いひげ面の口上男。白塗りの身体障害者の女性。そういう一団のテントの内部に招き入れられ、子どものわたしは頭をなでられたり、笑いかけられたりしていました。私はあの人たちが好きでした。ああやって旅をしながら歩くの楽しそうだなと思っていました。まだ小さかったし、差別をしない心をもっていました。じぶんの恥部をさらけだして生きていることが、すがすがしいような感じがしました。
私にとっては、ふつうであることのほうがどこかしら嘘っぽくおぞましいようにすら思えたのですが、そういう自分は悪趣味ではないかと怖れてもいました。どこかで洗練されたまともな趣味の人になりたいと思っていたのは、教育のせいかもしれないです。そうかと言って、お洒落なアート系の雑誌がかっこいいとするものには、なんだかなあ……と乗れない感じがありました。
なんにしても私は芸術に対する強いこだわりもなければ、愛着もないのような気がします。たとえば私が興味をもつのは、絵を描く時の障害者の姿勢、奇妙に身体を折り畳んで不自然な姿勢で長時間書き続けたり、することです。姿勢は良くしろと言われ続けてきているのですが、ほんとうは私は姿勢が良いのが苦痛であったりします。猫背が楽なんですね。まともであろうとする努力を取っ払ったら、じぶんはどういう人になるのかな?と思います。言葉遣いとか表情も含めて、これはどこまで本当のじぶんなんだろうか、ってわからなくなることがあります。なんていうかなあ、人間っていう着ぐるみを着ているような気がしてきて、それを脱いだらどうなるんだろう。でも、もう完全に一体化してしまって脱ぐことはできないのかも、みたいな。
きれいとか。汚いとか。いいとか。悪いとか。そういうこともどうでもいいようなところがあります。そこにこだわりがないというか、関心がないというか。関心があるふりをしているだけというか……。
せっかく選ばれて壇上に上がっているのに、こんな見せかけの自分しか出せないのか……と、がっくりしてしまい、ちょっとくらいは本音を書いてみようかと思いました。私はあざとい人間なので、他者のあざとさにも敏感です。同じものを嗅ぎわけることができるのでしょう。
編集され、構成され、そのなかでさまざまにいじられて、ちょっとお洒落っぽくなったものを、哀しいと思います。じぶんもそうやって適応して生きてきたんだよなあ、と。