思いだすために一番大切なことを忘れるのが人生
2016年 07月 03日
パク・チェヨンさんという作家の方から「佐藤初女 自分を信じて」(藤原書店)という本が送られてきた。お手紙がついていた。初女さんが亡くなる1年前からずっとインタビューを続けて来られたとのこと。お電話をしてみると繋がった。
「初女さんからよくランディさんのことを聞いていました。とても気にかけていらっしゃいましたよ」
と聞いて、そうだったのか、でもどうして、と、素朴に不思議だった。
パクさんに、初女さんがわたしについてどういうことをおっしゃっていたのかを聞いてみた。すると意外なこたえが返ってきた。
「あの方は、信仰を求めているんだと……、どうやったら信仰をもてるか探していらっしゃるの。でも信仰は降ってくるものだから。そうおっしゃってたのを覚えています」
信仰……。
確かに初女さんと初めてお会いしたとき「祈りってなんでしょうか?」と質問した。もう16年も前のこと。わたしは「祈り」というものがよくわからなかった。
たとえば原爆の日などに黙とうして「祈りなさい」と言われるけれど、いったいみんな何を思い、何を考えて、何をしているのか。
わたしはそっと目を開けてみんなの顔を見たものだった。冥福を祈るとはどういうことなのか……さっぱりわからなかった。
それは大人になってからもずっとそうで、祈っている人の内面を知りたいと思っていたから、ほんとうに単純に「祈るとき何をしているんですか?」と聞いた。
そのとき初女さんがどう答えたか、忘れてしまったのだけれど、きっと変な子だと思っただろうな。
わたしは神様を信じているいる人に会うと、必ずこの質問をした。
「祈りってどうしたいいんですか?」
初女さんは、そういうわたしを心にかけていてくれたんだな。そしてパクさんは、
「初女さんはもしかしたら洗礼を受けてほしいと思っていらしたかもしれないですね」
と、おっしゃった。
これもまた意外でびっくりしたのだけれど、ああ、そうだったのかもしれないと思った。
何年か前に初女さんにキリストの遺体を包んだという布(キリストの姿が転写されている)の実物大の写真をさしあげたことがあり、それを広げて一緒にしみじみと眺めたことがあった。
森のイスキアには青いマリアの絵がかかっている部屋がある。その部屋に泊めていただいたとき、夜中にコバルトブルーの光の線がマリアの中心から現れて発光しているのを見た。そのときは家族も一緒で、夫と娘と3人で「この絵にはなにか仕掛けでもあるのかしら?」と不思議に思って眺めていた。
翌朝、初女さんにその話をすると「ずいぶんたくさんの人があの部屋に泊まったけれど、そんな話を聞いたことは一度もないわ」と言われ、びっくりした。
夜のイスキアの庭に、白いヴェールのようなものが舞い降りてきて「あれは何ですか?」と聞いたら、そのときは初女さんは「あなたにもあれが見えるのね」とおっしゃった。「ここの土地は特別みたいなの……」と。
そして、確かに初女さんはわたしに「信仰というものを書いてほしい」と、確か二度目に会った時におっしゃったのだ。「でも、わたしは自分が信仰をもっていないし、信仰がなにかなんてまだ書けません」と答えた。
パクさんから本が送られてきたのも偶然であって偶然ではないのかも。
初女さんは信仰について語ってほしいと思っているのかも。
そんな気がした。
信仰……と言えるかどうかわからないけれど、祈りについて問うことはなくなった。
何が祈りなのかわかった。どうしてわかったのか、降ってきたとしか言いようがない。わたしの祈りがある。それが他の人と同じかどうか永遠にわからない。人はじぶんの祈りを誰もがもっているのに、人と比べてしまうのでわからなくなってしまう。
わたしに祈りはあったのに、それを祈りだと気づかなかった。どこか他に「祈り」というものがあると思っていた。だから降ってきたというのは、もともとじぶんのなかにあったものを認めた、認めざるえなかった、あるいは……再発見した、そんな感じかもしれない。
だからパクさんの本の副題「自分を信じて」はわたしにもあてはまるなあと……。
あなたはあなたでいいからじぶんを信じて。
それを伝えてくれたのかもしれない。そして、それを伝えてくださいと言われているのかもしれない。
なにかに守られ、抱きしめられ、愛されていることを感じる。強く。
感謝がちろちろと小さな泉の水のようにわいてくる。
感情の上がり下がりがあるにはあるけれど、それほど悩まなくなったし、悪い気分をいつまでも抱いていることもなくなった。年をとったからだと思っている。
欠点はたくさんある、いくらでも短所を探せる。そしてそれを克服しようとしてずっと闘ってきたような気がする。でも、人生は短くて、短所を直している暇はあまりなく、むしろ長所を伸ばせば短所もまた個性になっていくと知った。
信仰の基本にあるのは、あなたはあなたでいい、わたしはわたしでいい。
どちらも尊い。じぶんと他人を分けない、差別しない在り方だと思う。
じぶんを大切にしているから、他者も大切にする。
じぶんを大切にするから、よく食べ、よく眠り、よく学び、よく遊ぶ、よく働く。人生を楽しむ。それが人と同じでなくていいし、人に同じことを求めなくていい。
他人に求めるときは、じぶんを満たしていないとき。
では……わたしを満たしているものはなんだろう。
わたしを越えたわたし、わたしのなかにある魂のようなもの。
わたしであってわたしを越えているなにかが、誰にでもある。
すべての人が、光の大河の一滴であるという、感覚。
実感。
最初からあって、一度忘れて、また思いだす。
その過程で、わたしはいろんな人と出会った。
その人たちと同じものを求めて、でも、けっきょくそれはわたしのなかにあった。