7月15日に感じたこと

 昨日(2015年7月15日)はニコニコ生放送の国会中継で、安全保障関連法案が衆院平和安全法制特別委員会で可決されるのを観ていました。この日、採決があるだろうことは予想されていたことでしたから、採決されたことへの強い憤慨はありませんでした。

 それよりも、次々と、登壇し、発言する野党議員の方々と、それを受ける与党議員、安部総理のどちらにも、ことばは響き合っておらず、ただの雑音のように行き交うだけで、ことばは、どうでもいいような、がらくたみたいになって、その場に積み上げられ、無視されていることを目にして、じぶんの肩や胸が苦しくなっていることを感じました。

 与党議員の方たちは、すべての方が、今回の安全保障関連法案に全面的な賛成の意向を示しているわけではないにもかかわらず、起立してください、と委員長に言われたときには、立ってしまうのですよね。組織の一員であるから、そうしなければならない、という、頭の理屈で、全員もれなく立ってしまう。立たざるおえない。
 起立するとき、それぞれの心とからだは、なにを感じているのかしらと、じっと見ていたのですが、多くは手を前に置いてただ棒のように起立し、起立し続けることに耐えられないというように、すぐに別の行動、退室するという行動に移っていかれたのでした。

 戦争はイヤだといいながら、軍部に従わざるおえなかった昭和の時代と今は、こんなにも違うのに、人の心は時代とともに変わるわけではない。代議制民主主義は国民の意見を議員に託すものであるのに、それが機能していない。でも七十年という短い時間で、人間の心がそう変わるわけでないのは、いたしかたないことなのだとも思いました。

 「自民党なんか感じ悪いよね」という紙をもって、強行採決に反対している野党議員の方がいました。これは、国会前のシュプレヒコールでも聞いたのですが、この「自民党なんか感じ悪いよね」という、フレーズが、わたしには妙に心に痛いというか……。ああ、この「なんか感じ悪いよね」というニュアンスに込められた、せつなさというか、攻撃され返されないためのオブラートというか、それがいま生きている人たちが、抱えている、他者との対話回路のエッジなのかな、と、そいうことを感じました。

 委員長の採決を阻止しようとして、野党議員の方たちが回りを取り囲みます。手を振り上げいるものの、ゼンマイ仕掛けの人形のような動き。もう採決があることは想定内なのです。だからそれを本当に阻止しようとしている人がいないことは見ていればわかります。それはとても出来の悪い演劇のようなもので、ただ、演じているうちにだんだん気分が高揚してくるから叫んでいる感じなのです。

 委員長は、悲鳴のような声で採決を終えると、急ぎ退室なさいました。そのあと、この場はどのように締めくくられるのだろうと見ていました。

 場が閉じてしまうと、誰からともなく委員長の机の上に「強行採決反対」の紙が置かれました。すると、みんなが、まるで献花をするように、それぞれに持っていた紙……プラカードを委員長の机の上に置いたのです。それは、とても不思議な光景でした。きれいに並べて置く人もいました。とてもていねいに置くのです。投げ捨てるような人、破り捨てて怒りを表明する人はいませんでした。怒ることも、できないのだなあと思いました。

 そして、一人、二人と、とても、あいまいな感じで、やるかたなく、どこか後ろめたそうな雰囲気すら漂わせて、その場を離れていくのです。なかには、最後まで、紙を両手にもって頭のあたりに上げて意思表示をする人もいましたが、それも、長くは続けることができず、うなだれて、すぐ下げて、その虚無感といいますか、自分がなにをやっているかわからない感じといいますか、それは、与党にも野党にも、どこか共通したものでした。

 この方たちは、じぶんがやっていることと、やらされていることが、お互いにわからなくなってしまっているんじゃないか。もう、自分の実感とか感覚から阻害されたところで生きてしまっているんじゃないか、と、そんな感じを受けたことが、私の中にずうんと鉛みたいに残りました。

 そういう中で、とにかくこれを押し進めるんだ、という、なにか強い信念を感じるのは安倍総理だけでした。あまりにも他の人が「気乗りしない」と思っている雰囲気が匂うので、安倍総理の「やる気」はかえって精彩を放っているようでした。

 中継中、辻本清美議員が画面にずっと映っていたのですが、あの辻本さんでもやはり「茶番だ……」という倦怠感がわかる感じでした。何に本気で立ち向かっていいのかわからない、という空虚な雰囲気は、党派に関係なく国会全体の低通音のようで、ほんとうは、この「憲法第九条」というパンドラの箱を開けてしまうことが、みんなものすごく不安なのではないかと感じました。

 ニコニコ生放送では、コメントというものが流れるのですが、これはとても興味深いのです。リアルタイムで発言している人に対してコメントが流れるのですが、よく相手を見ていて、目つきとか、行動とか、ことばをかんだりするのを茶化してきます。

 また、ステレオタイプで、定番のけなし言葉というのがあり、それをエンドレスで繰り返す人もいます。差別的な発言や、共産党に対してはスパイとか、そういう事を言います。

 見ていて、わかったのは、相手の話を聞こうとはしていないということでした。ですが、話している議員のほうも、ほんとうになにかを伝えようとしているふうにはあまり感じられないので、吊りあいが取れているというか、コメントも含めて、すべてが茶番のような感じなのです。

 私は五十歳を過ぎていますから、強行採決というものを、これまでも何度も見てきました。茶番には茶番なりの熱気や迫力があったのですが、いまやかなりパワーダウンしているように感じました。野党がこんなに覇気を失ってしまったのはなぜだろう。

 でも、野党に覇気がなければ与党にも覇気は生まれない。拮抗するから、力がスパークするわけで、いまや与党も野党もみんな、議員が疲れている感じがしました。

 東日本大震災以降、日本各地で地震が続き、水害も増加。あちこちで火山が噴火し、日本という国土が揺れている。福島第一原発の復旧作業は予定通りには進んでおらず、原子力を国策としてきた日本は、稼働できない原子力発電所を抱え、なおかつこれから廃棄物の処理を検討していかなければなりません。現実的に物理的にあるものをどう解体していくのか。人間の新しい課題です。難題山積みのなかでの、今回の、安全保障関法案とそれにともなう憲法解釈の問題は、個々にかなりの負荷を強いたのではないかと想像しました。最低の投票率で運営される国会。そこで、戦後最大の採決をしようというのですから。

 投票率が伸びないのは、議員のことばが届かないから、からだごと、こちらに向かってくる、ことばがないからかもしれない。わたしたちの、からだはとても正直で、こちらに向いていない相手からは引くのです。でも、それでは、悪循環なのですよね。

 かつて、ハリネズミのジレンマ……ということばが流行った時代があったのですが、いまは、それは病理ではなく、わたしたちの日常になったのかもしれない。総ハリネズミ時代になったのかもしれない。

 国会前の中継も見ました。夜の十時を過ぎる頃もたくさんの人が国会前で抗議行動をしていました。
 野党議員の方がいらして、演説をなさいました。最初は、共産党の志位さんで、コメントには「案外、演説うまい」と、流れていました。確かにわかりやすくて明るかったけれど、ことばがするする滑っていくように感じました。社民党の吉田さんの演説はニコ生では不評でした。「何を言いたいのかわからない」というコメントに頷くしかありませんでした。ずっと抗議行動をしている若い人たちに向けて、語ることばを、この人たちはもっていないのだなと感じました。わかりあえないと、どこかで思っているのだと。同時に、コメントではブーイングできるけれど、本人を前にしてはできないのかもしれないとも思いました。人と一対一でむきあったときは、閉じてしまう。あの場で、生の吉田さんに「なに言ってんだかわかんねーよ、おやじ!」と言えたら、吉田さんもぐっとアクセルが入るかもしれない。でも、そういうコミュニケーションの取り方は、昭和の郷愁なのかなあ……と。

 香山リカさんが登壇して「こんな社会にしてしまってほんとうにゴメンナサイ」と謝罪をしていました。「わたしたちの世代の責任です、ゴメンナサイ」と。わたしは香山さんと同世代ですから、その気持ちはとてもよくわかるのです。でも、それを言っていいのかな、と、複雑な気持ちでした。ぐっと腹にしまって、ありがとう、行くぞ!と、やるぞ!と、言うほうがいいんじゃないか。ゴメンナサイと言われて、若者は、踏ん張れるのだろうか。ことばが、相手のほうに行かずに、とぐろを巻いてしまっているような、なにかこう、苦しい感じを受けました。

 憲法を護れと、国会前で抗議している若い人たちと、四十代、五十代、六十代の、彼らの親世代の、まさに私の年代の人間の、ことばが、響きあっていかないのはどうしてだろう、と、自分の問題として考えました。
 双方に微妙な遠慮がある。わたしは、上の団塊の世代よりも、他者と対立するのが苦手だと思います。その傾向は、より下の世代に行くほど強くなっているのではないか。

 本音で、ぶつかり合うなんて昭和なことは、もう、いまの子どもたちの「からだ」ではできない。からだが違うようになった。そう言っていたのは、最後のアングラ劇作家とも言える山崎哲さんでした。劇団員と向きあいからだとことばを見づづけててきた山崎さんが、最近は声も出ない子が多くなった。大きな声が出せないんだ……と。からだも、内側に閉じていて空気が吸えない、コミュニケーションがうまくできない子が増えた……と。

 国会前で、みんなが叫んでいました。何時間も。シュプレヒコールは続いていました。それは、すごいこと。声と、ことばと、からだで、響きあうこと。反発でもいい、怒りでもいい、からだが、発する声に、ことばが導かれるような、そういう、ことが、生きていくうえですごく大事なんだ。
 ひとりひとりにとって大事なことが大事なんだ。政治とは、直接関係はないように見えるかもしれないけれど、わたしの関心は、そこでした。そこが突破口だ、と。
 響きあう声と、からだ、そして、ことば。


 

 
by flammableskirt | 2015-07-16 17:11

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