「古事記 天と地といのちの架け橋」
2014年 10月 08日
東京ノーヴィ・レパートリーシアター公演
「古事記 天と地といのちの架け橋」
2014年10月8日初演を観て
田口ランディ
顏が、際立っていた。
今夜、わたしが体験したのは、神の顔の前に座るという神秘。
日本人であるなら、たぶん誰もが了解している「神の面相」というものがある。
恵比寿神や大黒神という、わたしたちにとって馴染み深い神さまたちは、なぜか一様に、独特の笑みを浮かべている。不思議な笑みだ。人間の美意識では量ることのできない、得たいの知れない超越的な笑みだ。時として不気味にも思える笑みだ。
神は笑っている。神の笑みを、わたしは(たぶんわたし以外のたいがいの人も)、酉の市で売られる熊手か、神社に祀られた石像か、あるいは居酒屋に飾られた木彫りの像でしか、体験したことがない。いまどき神を演じる者はいない。お神楽や能は神を舞って見せてくれるが、神の顔は面であり、生身の人間が神を顏に宿すことはしない。
ところが、この舞台において俳優たちに課せられたのは「神を顏に宿す」ことだった。「古事記 天と地といのちの架け橋」は、俳優たちがその顏で神を表現するという、神話世界への斬新な試みであり、しかもそれが成功していたのだから、日本人は神の顔を細胞で記憶しているのだと納得するしかない。
顏が美しかった。微笑むとは、花が咲くことを意味することばでもある。顏が花となって舞台に咲いていた。面白いとは、顏が照らされて白く輝く様である。輝く神の顏は客席を照らし、燦々と祝福していた。見た者はみな顏によって祝われる。祝いとは、石に神が宿り磐(いわ)となること。転じて神の宿りを寿ぐことば。今宵、無数の祝いの顏が、舞台から世界を荘厳していた。
顏の力、そのことを思う。
「顏施(がんせ)」ということばがある。笑みを浮かべることを施しとする仏教のことばだ。顏には神通力があるのだ。顏ということばは「カ(外)・ホ……外へ現れる」という意味であり、顏によって、つまりは、眼と鼻と口の周りを覆う表情筋と呼ばれる筋肉によって、人の心のすべてが外に向かって現れているから、浮かべる表情のひとつで、人を癒し、喜ばすこともできれば、怖がらせ脅えさせもできる。頬も同じに「現れる」の意であるなら、ほほ笑みこそ、裡から外に向かって現れた神の顕現、祝福の開花。そう考えれば、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三神が、イザナギノミコトの顏から生まれ出でたことも、合点がいくではないか。
今宵、劇場に集った観客は無量の「顏施」を受けて幸福に浸ったのだが、この「顏施」は期間限定であるので、もし、なんらかの心痛や、日々の暮らしの疲れに気持ちが沈んでいるならば、神社に参る気持ちでこの舞台に足を運んでみるのもよいかもしれない。
神々の顏によって荘厳される体験はとても希有なものだ。
いま、わたしの好奇心は、客席を離れて、神を現す笑みを浮かべ続ける俳優たちに向かう。
彼らは、公演の間ずっと、過酷なまでに「神の笑み」の表情筋を使い続けるのである。笑みの表情は人間の脳に働きかけ、幸福を感じる脳内物質を誘発することが証明されている。……であるなら、この舞台を通して俳優たちの裡にはどんな変化が起こりうるのか。公演が終了したなら、一人一人に質問をしてみたいと思う。いったい、あなたは、どんなニルヴァーナを体験したのか、と。
上演は13日までです。
この舞台の公演に関しては以下のサイトをご参照ください。
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/index.html