この世の水面に棲息する異人たち

 境界は在るけれど、無い。
 この世の水面に棲息する異人たち
          劇団『態変』公演『ミズスマシ』を観て

 田口ランディ

 劇団『態変』の主催者である金満里さんのソロ公演を、2012年の12月に観たことがきっかけで、2月14日から伊丹市のアイホールで行われた劇団公演にも足を運んだ。伊丹まで出向いたのは12月のソロ公演があまりに素晴らしく、魅せられたからである。友人のピアニスト、ウォン・ウィンツアンさんがライブで音楽を担当する、というのも魅力的だったが、一番興味があったのは結成三〇年になるこの劇団の……もっと露骨に言えば障害者による演劇に興味をもったからだ。

 金満里さんは幼少時にポリオを患い、以降、重度の身体障害をもつ。足はほとんど動かないので、舞台上では黒子に運んでもらうか這って移動するしかない。他の出演者も程度の差こそあれ全員障害者である。
 劇団『態変』は障害者の劇団なのである。そして、私が知る限りこの劇団はかつてかなり過激な障害者運動の旗手であった。

 ほんとうに偶然なのだけれど、私が二十代の頃に介護ボランティアとしてかかわっていた、重度脳性小児麻痺の高木美鈴さんと、金満里さんは関西の施設で共に過ごした仲間だった。私は三年半ほど高木さんの介護者として彼女の世田谷のアパートに通っていた。その時、高木さんから「私は舞台に立ったことがある。その劇団の名前は『タイヘン』っていうのよ」と聞いたことがあった。当時、私はその名前を『大変』だと思い込んでいた。

「そんな劇団があるんだ?」
「そうよ、障害者ばっかり出てるのよ」
「じゃあ、ほんとうに大変だね」
 こんな会話を交わしたことを記憶している。その後、この劇団の名前を聞く機会はあったが、それは「演劇」としてではなく「運動」として語られていることが多かった。役者が障害をもっている事が特徴として語られ、それ以上でも以下でもなかった……少なくとも私の耳にはそう届いた。活動拠点が関西でもあったため、私はこの劇団に興味を持たずに長い年月が経ってしまった。

 およそ十年ほど前に、再び金満里さんの名前を聞いたのは当時の私の担当編集者だった(現在は明治大学の准教授)藤本由香里さんからだった。藤本さんは金満里さんの本を編集しており、彼女のパフォーマンスを録画したビデオを送ってくれた。当時、デビューしたばかりの私は環境の変化についていけず、まったく余裕というものがなかった。あらゆる情報は私を素通りしていった。本もビデオも映画も郵便屋さんがうんざりするくらい届いた。感覚が麻痺していて、私は録画された映像がよくわからなかった。この時も金満里さんと出会うことはなかった。

 十年の時間を経て「年末に金満里さんが東京で公演をしますから、いっしょに行きませんか?」と藤本さんに誘われたとき、その公演は年末の28日という年の瀬であったにもかかわらず、どうしても観てみたい!と思ったのは、たぶん私が五年ほど前から『アール・ブリュット』というアートに関わってきたからだと思う。

 アール・ブリュットは、正規の美術教育を受けていない作家たちが創造した芸術を指す。その作品の多くは身体や精神に障害をもった作家たちが創作している。自由で大胆なアール・ブリュットの作品群は、爆発したカンブリア紀の生命のごとく圧巻だった。見た瞬間にぐらぐらと魂を揺さぶられ、以来、ずっと日本のアール・ブリュット作品の発掘に協力し、この芸術が社会的に認知されるように広報や講演を行ってきた。

 これまで、障害者による芸術は『障害をもったかわいそうな人たちががんばって描いた絵』というような評価しか与えられなかった。それが芸術……、現代アートの作家と並んで展示されたり評されたりすることはなかった。でも、日本のアール・ブリュット作品は本場のヨーロッパで絶賛され、紹介されるやいなや巡回展の依頼が相次いだのだ。パリ、オランダ、そしてロンドンと作品が各国の美術館で展示され、ヨーロッパのアート関係者やメディアから注目を浴びた。

 以降、ようやく日本でもその存在が認知され、各地の県立美術館で大規模なアール・ブリュット展が相次いで開催されており、しかも、非常に多くの来場者を集めているのである。
 
 12月に観た金満里さんのソロ公演『天にもぐり地にのぼる』は、これまで観たこともないまったく斬新な舞台だった。ショックを受けた。こういう出会いには機が熟す時間が必要なのだろう。わたしはそこに表現されたものを楽しめたし、感動できた。彼女が障害者かどうかなんて関係なく……。これは重要なことだった。私の側にも準備(あるいは覚悟)が必要だったのだ。

 彼女は自らの肉体を理解し、他者とは違う変形した肉体を細部まで意識し、何を表現するかを大胆かつ繊細に計算していた。立ち上がることもできない重度障害者の彼女がとてつもない身体的制約を受けながら創造した、彼女独自の『動き』は美しく、妖艶で、しかも威厳に満ちていた。その指先の美しさも、キュービズムの絵画のような上半身のシルエットも、軟体動物のような下半身も、すべてが彼女の緻密な計算のうちに入り、わずかな動きがえもいわれぬなまめかしい躍動を生み出していた。

 これは、身体表現におけるアール・ブリュットだ、と思った。彼女は肉体を意識している。だが、彼女は肉体を完全にコントロールすることはできない。その不完全さゆえに、意味を越えた意味というものが立ち現れる。それは偶発的だから面白いのではない。偶発に見えてもその背後には無自覚的な意味が存在するから芸術なのである。この、自覚と無自覚、意味と無意味のあわいにこそ『態変』の身体表現の魅力がある。意図できない意図、偶発ではない偶発。そうでなければただのでたらめになってしまう。

 12月はソロだったが、これが群舞になったらどうなるのか?
 どうしても観たくなったのだ。
 それに、公演のタイトル『ミズスマシ』というセンスはすばらしい。
 水面とは外と内の境界である。その「境界=あわい」に住まう小さな命になにを託して表現するのか。

 伊丹で上演された『ミズスマシ』には7人の役者が登場する。
 舞台は暗転から始まった。サーチライトのような照明がぐるりと観客を照らし、目の前が真っ白になる。それから、暗い舞台がうっすらと明るくなっていく。舞台上にはあたかも外界を映す湖面のようにミラーシートが張られている。その上に、死体が転がっている……。それは死体としか見えなかった。しかも、爆撃を受けて傷ついた死体であり、しばらくするとその死体がぴくぴくと痙攣して息を吹き返すのである。

 なぜ、転がっている役者が死体に見えたのか……。それは、正直に言ってしまえば役者の腕がなかったり、足が曲がっていたりするからだ。そのいびつさのもつリアリティはフォルムとして喚起力があるのだ。もっと言えば、私を金縛り状態にしたのは、役者の向井のぞみさんの存在だ。向井のぞみさんの両腕は関節から先がなく、また腰から下の肉体もなかった。頭と胴体と二の腕だけの姿が、目の前に転がっていたのである。彼女は自分がどう見えるかを意識して、死体となっていた。死体を完璧に演じていたのだ。その光景は、激しい爆撃を浴びて飛び散った肉片のように生々しく、しょっぱなから背筋がびりびり痺れた。

 この人たちの身体が、ただそこに在るというだけで、私に与えるこの戦慄はなんだろうか……。
 それは、まぎれもなく……死体だった。

 演劇空間で死体を演じられる役者は少ない。ただ寝ていれば死体に見えるかと言えばそうではない。死体ほど難しい役はないのである。死体を演じればすぐ嘘が露呈する。
 だが……。繰り返し言うけれど、そこには死体があったのだ。確かに死体だった。
 その死にっぷりの見事さに、私はもうやられてしまったのだ。

 ほんとうの死体を見たときの戦慄が……甦ってきたからだ。
 無残な死体を見た時に、人間が感じるある激しい感覚……。それを体験したことがあるだろうか? なかなか体験できない感覚だ。人が他者の死を前にした感覚を、『態変』の役者たちは、いきなり私に喚起してきたのだ。
 体の不自由な役者が演じる最高の演技が死体であること。
 そしてその死体が完璧であったことに、天啓を得た。

 しかも、その死体は甦り、動き出し、這い回り、歩き出した。
 上半身しか肉体のない向井のぞみさんは、腕と頭でバランスを取りながら美しく蠢いている。腕の先は床にすれて真っ赤になり血が噴き出しそうだ……。彼女は自分の不完全な肉体をしっかり意識し、それがどう見えるかを最大限に考慮し、計算しつつ動いているのであり、その動きは全く体験したことのない恐るべき舞踏だった……。同時に彼女の肉体はコントロールから逃れて彼女の意識からズレていく。そのズレとの格闘が緊張感を生む。

 冒頭から、ガツンとやられてしまった。
 以降、1時間半、彼ら一人ひとりの動きからまったく目が離せなかった。

 そうか……劇団『態変』は三十年をかけて、その存在意義を探ってきたのか。自らの肉体を使った表現の可能性を追求し、こんなに美しく、奥深い人間存在の闇と光を見る者たちに放つまでになったのか……。そこにどのような葛藤があり、出会いがあり、試練があったことかを想像することは、私には不可能であった。その黒歴史は金満里という太陽の巫女のなかにブラックホールのごとく存在し、安易に近寄ることを許さない。

 そんなありきたりな問いには陳腐な答えしかないから問うな! 
 舞台の上から眼光によって威喝された気がした。
 ただ、じっと私を見なさい……と、彼らはそう言うのだ。

 芸術の力、人間がなぜ芸術を求めるのか、その意味、その答えのひとつが、この劇団の表現にあると思う。
 劇団『態変』の舞台表現は障害者でなければできないが、障害者だから凄いのではないのだ。芸術にはどのような境界もない。無境界なのである。無限に展開する命の多様性は、おおもとはある一つのものから生まれる。無から生まれて混とんを成す見ないエネルギーが世界を創造し続けている。

それが命の本質である。そのことを、私たちは忘れているけれど、この舞台を観ていると、ふわっと薄明かりが差すように思いだされる。はっきりと……ではない。この多様さの背後にある柔い無量の光が、わたしにも、あなたにも、彼らにも、その裡から漏れているのを感じられるのだ。

 劇団『態変』は、これまで助成金を受けて活動してきたが、せちがらいご時世で彼らの活動が福祉の分野からはみだしているとして、助成金が降りなくなった。NPOではなく劇団として存続することを選択した『態変』は、これから表現集団としてプロ活動を強いられることになった。
彼らの芸術活動は日本が世界に誇るべきものであり、絶対に存続させなければならないと思う。多くの人に、世界中の人に観てほしい。

劇団『態変』ウェブサイト
http://www.asahi-net.or.jp/~tj2m-snjy/jtop.htm
賛助会員を募集しています。会員になると特典があります。
詳しくはこちら→http://www.asahi-net.or.jp/~tj2m-snjy/main/supporter.html
by flammableskirt | 2013-02-19 18:17

作家 田口ランディの新刊・イベント情報・近況をお知らせします。 


by flammableskirt
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31