東大駒場キャンパス「人間の安全保障プログラム」にて

16日、東大駒場キャンパス「人間の安全保障プログラム」にて、友人である小林麻里さんのお話を聞きに行った。麻里さんは「福島、飯舘 世界はそれでも美しい 原爆避難の悲しみを生きて」(明石書店)の著者で、私の新刊「サンカーラ」にも実名で登場している。

福島第一原発の事故当時、福島県飯舘村に住んでいた麻里さんは、事故後に放射能量の高い自宅を離れた。いまも避難民として築三十年の一軒家を間借りし、薪風呂をたいて生活しているという。事故から現在までを振り返りつつ、社会に溢れる意見と自分の心情のズレについて、とまどいとも、怒りとも、悲しみともつかない複雑な胸中を語った。「この世界で生きるってどういうこと? 福島以外の人たちは救われているのか?」という彼女の問いは、とても深い。

彼女の問いは、福島原発のような事故がこれからも起るかもしれないから原発は止めるべき……、という発想そのものを問いかける。

たぶん……、核の問題は「ヒロシマへの原爆投下」から始まり、アーサー・ケストラーが「ヒロシマを0年に」と言ったように、すでに「ヒロシマ・アフター」を全世界が生きている、という発想に立たない限り、誰かを被害者と加害者に振り分けることで、対処療法的に安心し、問題を先送りしていくだけなのだと(私は)思う。

ヒロシマ以降、世界はずっと被曝し続けているのであり、地球という生態系に生きている生きものすべてが被曝しているのであり、この事態を引き起こしているのは、人間の裡にある暴力性であることは疑う余地がない。

生きものを殺して食べることによって生命維持をしていく……という動物としての肉体をもちながら、意識をもってしまった人間が、殺す……という行為を「処理」とか「処分」と言葉でいかに言い換えようと、殺すという性から逃れることができず、潜在的な暴力性を持ち続けなければいけないことは、宿業なのだろう。それにともなう原罪意識からも逃れることは難しい。

菜食主義はこの「殺す」という暴力性からなんとか逃れようという人間の試みであるかもしれない。だが、誰かが肉を食べなくても、肉を食べずば生きられない人々がいるのなら、食べるということの業はすべての人類によって共有されるしかないだろう。私が食べなければ人間全体が食べないことにはならない……。私は個であると同時に種の一部でもあるのだ……。その意味において私だけが赦されるものはないのである。

日本人がいかに原罪意識をもち続けていたかは、いたるところに存在する「供養地蔵」が示している。ありとあらゆるものを供養するのは、供養を通して罪を赦されるため……。手を合せるとき「殺生をしてしまう自分」を深く自覚していたはずだ。その自覚が薄れているのは、罪が薄れているからではなく、罪から目をそらしているからであり、暴力性は自覚されないだけで心のなかに存在し続けている。ここでいう暴力とは人を殴るとか、物を奪うとか、そういうことだけではなく「力による秩序の獲得」を言っている。平和のため、平安のため、安全のために力を行使することも指している。

麻里さんは、かつて住んでいた飯舘村の家と森を、もう一人では手入れをして維持することが不可能となり「人が入ることのできない自然に戻っていってしまった。森の神様に、お返ししますと手を合せてる」と語った。

そして「私の家の周りは除染してほしくない……」と。でも、彼女は除染を拒む理由はふつうの人が理解できるような言葉で語れない。
麻里さんにとって、大地を除染し表土を削り取ることは、自然に対する人間の暴力であり、その暴力性が深い地下水脈で原発へと繋がっていることを、直感しているのだと思う。

優れた直感力をもつ麻里さんは、自身の裡なる暴力性に目覚めている。自然から奪い取り、自然のカオスに手を入れて森をひらき家を立てて田を耕す自分の力の行使を自覚している。この自覚だけが人を祈りへと向けさせるのだと思う。この自覚なき祈りは……存在しない。

だから、麻里さんは「私は被災者であっても被害者ではない」……と、主張する。災いは、暴力ではないから……。「被害者」とは力を行使された人である。だが、彼女には今起こっている現実が、誰か特定の個人が力を行使したものとは思えないのだ。彼女は「自分たちが自然に対して力を行使した結果」として現実を受け止めている。だから被害者であろうとしないのだ。

だが、そんな麻里さんの心情はとうてい理解されない。解き難いねじれは世界がヒロシマに落とされた原子爆弾という暴力の行使に口を閉じてしまったことから始まっている。核は人間の内部の暴力性が外に投影拡大されたものと認識すべきだった。

2001年のテロ後、アメリカを批判し、いまも批判し続けている知識人の一人、ノーム・チョムスキーは「9.11が起きた時、私はインドで世界最古の詩を読んでいました。そこには現実と同じことが書かれていました」と語っていた。チョムスキーが読んでいた「リグ・ヴェーダ」には、森を破壊し水の支配を暴力で獲得した神を讃える歌がある。それによって秩序ある安定した世界が誕生したことを記す物語だ。奇しくも、核実験を指揮した物理学者オッペンハイマーも、核爆発を見てヴェーダの一節を口ずさんだ……。それは何を意味するのか?

世界に秩序を打ち立てるのは、人間だけだ。人間はその場所その時代に応じた倫理観によって秩序を作ろうとする。秩序以前のものは無秩序とされる。自分たちの秩序から外れるものは無秩序なのだ。無秩序な状態を秩序に変えるために力が行使される。北朝鮮の現状は私たちから見れば無秩序である。資本主義国は社会主義国を無秩序と思うので、力によって秩序化しようとするし、逆もまたしかり。戦前、日本は中国に、朝鮮半島に、力でもって秩序をあたえんとした。アメリカもまた、無秩序な日本に民主主義という秩序を、力でもって与えた。それによって生まれた戦争のない平安の六十数年のなかで私は育ったのだ……。ヴェーダが示した「暗示」は何千年もの時を超えて私たちと共にある。平成という年号の裏側にも双子のように隠れている。

「生きるだけで精いっぱいで、他のことはなにもできない……」と語る麻里さんは、絶望しているのだろうか。生きることに没頭することが生の充実と言うのではないか。生きる以外に優先すべきことがあるとしたらなんだろう。福島に暮らす彼女は、セシウムがとりこまれているだろうマツタケがあまりに立派でおいしそうなので、皆で相談したあげくにマツタケご飯にして分け合って食べたという。「東京の人が聞いたら、だから東電や国が被害を過小評価するのだ、と怒るでしょうね」と言っていた。命を分け合い喰らう……という営みのなかに、うっすらと光が差している。情況を受け入れると決めた人々はぐっと肝を支える足腰の強さがある。でも、その価値観は多くの都会人にとって無秩序に見えてしまう。

復興計画に盛り込まれた項目は、お金、除染、メガソーラー……。復興とはなにか? それでほんとうに魂は救われるのか……。だが、魂の問題は倫理の対立のなかにあっけなく霧散する。なぜなら、魂は語られることを拒むから。魂は語れないから。この国のシステムに組み込まれた言語では語りえないものだから。

狂牛病で、鳥インフルエンザで、放射能汚染で、多くの家畜が処分された。だがもう慣れてしまっていないだろうか。その慣れがつくる歪な形こそ「いま」であり、いまここの延長にある未来である。

麻里さんが言う。「福島の鶏が汚染された、牛が汚染された……という。処分しろという。食料としてしか見ていない。生きものなのに……と思う」
生きものを食料としてしか見れない人間のおぞましさを、彼女は感じとる。ペットを食べないのは食料ではないからだ。ペットが存在することはペットではない動物が存在してしまうことと対なのだ。ペットの影にはどんな動物が隠れているのだろう。もはや動物ですらないのかもしれない。肉の塊……食料として消費される。

おぞましさは私の姿でもある……。麻痺していると思う。もはや己の暴力性を見つめることも難しい……。でも、気づき始めた人もいるのだ。それはまだ直感でしかないかもしれない。そして、直感を信じることは苦しいかもしれない。周りとあまりに違うから……。「頭がおかしくなりそう……」と彼女はいつも言う。そうだろうと思う。

麻里ちゃん、がんばれ……。 あなたにだけ見えている世界を、どうかことばで伝えてください。それはほんとうに、ほんとうに、とてもたいせつなしごとなんだよ。

福島、飯舘 それでも世界は美しい

小林 麻里 / 明石書店


サンカーラ: この世の断片をたぐり寄せて

田口 ランディ / 新潮社

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ: 原子力を受け入れた日本 (ちくまプリマー新書)

田口 ランディ / 筑摩書房


by flammableskirt | 2012-11-17 14:17

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