「いじめ」と「問題」の言葉の呪術性
2012年 07月 24日
どんな言葉と接しているか、どんな言葉を使っているかという「言葉環境」はその人の心や考え方にとても影響を与える。人間は言葉で洗脳される。そのことを思えば、言葉によって自分が作られていると言ってもいいくらいだ。
たとえば「いじめの問題」という言葉。この言葉にも呪術的な要素がある。「……の問題」と言った時には、問題視する、という行動パターンとそれに伴った、問題は解決できるという思考パターンに人を落とし込んでしまう。
だから「いじめ」は「問題」として扱われ、あたかも試験問題のように「解決」が叫ばれて久しいし、「解決策」が国語の試験問題を解くように模索されてきたのだと思う。
また「他者に快感をもって無自覚に加えられる精神的、肉体的な虐待」を「いじめ」と名詞化することで、たとえば「幼女に対する性的な虐待」を「いたずら」として名詞化したように、事の本質を「犯罪未満」としてしまう傾向があるように思う。これも「言葉の呪術」だと思える。
「いじめ」や「(幼児に対する)いたずら」という言葉は、もともと加害者の側に立った言葉であり、虐待する側には「悪いことをしている」という意識が希薄だからエスカレートしてしまう。
でも、たぶん多くの人にとって「快感をともなった他者への虐待」というストレートな表現がどこか「痛い」ので、このようなボヤけた(甘っちょろい)名詞が選択され使用されているのだろう。多くの人とは誰かと言えば「潜在的にそれをしそうな人、あるいはかつてしたことがある人」ではないかと私は思うし、他人事ではなく、環境さえ与えられれば誰でも(私も)虐待者になる(可能性が十分ある)ことは、過去の様々な心理実験や歴史が証明している。
人は自分が加害者側であることへの「怖れ」があり、その背後には「罪悪感」があるように思う。その罪悪感に自覚的な人は「自分の暴力性」をコントロールできるけれど、無自覚な人は「罪悪感」と「怖れ」だけを無意識的に感じるために、避けよう、見ないようにしようという思いが働く。すると「いじめ」とか「いたずら」という、ぼんやりした言葉が全体の総意として浮上することになる。
いま、社会に起きている様々な出来事は「いじめ問題」「原発問題」というように、入試の問題集のタイトルのようになっており、あたかも「解答」があるかのように「固定」されてしまっていることは本当に注目すべきことだ。人間は、言葉で思考するため、言葉によって自分の世界を構築している。それゆえ言葉によって操作されやすい。「いじめ問題」とした瞬間から、もう「問題と解決」という、ある呪縛につかまってしまう、……つまり洗脳されていると同じなんだと思う。
そして、この「問題と解決」というわかりやすいものの考え方から一歩も出ることができなくなり、「いじめ問題」という問題集の問題を皆がネット上に出題して「答えを探しなさい」とどこかの誰かに言っているのだ。
たまに別の次元から誰かが発言しても「では問題の答えはどこにあるのか?あなたは問題を問題としてとらえていない。それでは話にならない」あるいは「ではあなたはいじめの問題をほっておいてもいいと思うのか?」というような議論になってしまう。「
「原発問題」でも同じで、「原発問題」という問題集の例題を、実にたくさんの人が出題し、同時にその問題に答えるべく、実に多くの人が解答を出そうとしているが、問題と解決という、わかりやい入試的な構造でしか物事が見られていないのだった。
これは、日本の教育というものがとても長い年月をかけて作りあげてきた「入試制度」と「試験勉強」というものの弊害であることを「問題」とする人達が過去にも、今もたくさんいるので、たぶんそうなのかもしれない。
ただ、入試や教育の有り方だけでは、ここまで蔓延しないのではないかと私は思う。
この「問題集的思考」が選択されているのは、この考え方で生きていれば、常に「問題を提起する側」におり、試験官的な全能感に酔っていればいいという利点がある。解答を他人まかせにして出題するほど楽なことはない。「いじめ問題」という問題集を作り、しかも解答は他人にまかせて、問題提起したことで自分の罪悪感からは逃れることができる……という一石二鳥の考え方なのだった。
テレビの討論番組でも「それが問題なんですよね」「その問題をどうするかです」「この解決策が急がれますね」「解決に向けてがんばっていきます」ということで終るのである。
でも、これもまた「教育問題」としてしまうと(笑)、「教育問題」という問題を解くための方法や、解答を求めることになってしまう。
問題という言葉は本当に便利な言葉で、もうこの言葉の便利さにすっかりならされてしまい、この呪縛からなかなか抜けられていない(私自身、つい使ってしまう)。
「問題」があって「答え」があり「解決できる」という、呪縛から一度、完全に抜けて物事を見てみることができるか。問題という言葉、解決あるいは方法という言葉を使わずに、事象を捉えてみると、少し、世界が変わって見える……かもしれない。
これは世界を自分がどうとらえるか……という「世界認識」のための提案であり、私の外の世界で起こったことに自分なりの考えや行動で関わっていくという、とてつもなくめんどうで、死ぬまで続く、気の長い方法=ライフスタイルの提案でもあるのだ。
「問題と解決」があると思うと、人間は外の世界だけを強制的にリセットしようとしがちだ。」いじめ」というかなり加害者寄りの潜在意識が創りだした身勝手な名詞を、「問題」とした瞬間から、言葉の呪術にはまっている。言葉とはそれほど恐ろしいものなのですよ……。
この言葉の呪縛を解き放つ人たちが……その時代時代で、詩人と呼ばれていたのだと思います。