内面と向き合うってどういうことだろう?
2012年 06月 10日
昨年はどうしても外に外にと動き、外からの要請のままにひたすら動いていたような気がする。たぶん、多くの人がそうやって大きな災害の余波のなかでじぶんのあるべき様を模索していたのだろう。少し時間が経って、ようやく外に向っていたものがじぶんの内側へ戻ってきた。
それは、忘れるとか、薄れるとか、そういうことではなく、じぶんのこととして受け止めようとしている……ということなんだと思う。
きのう、ある友人と話しをしていて「じぶんの内的と向き合う……という言葉は、慣用句のようになってしまって、すらっと使われてしまいがちだけれど、いったい、内的とはどこで、向き合うとはどういうことか……ということを教えてくれるものは少ない。私じしんもよくわからないまま、使ってきて、わかったような気になっていた。だから、もういちど、内的と向き合うとはどういうことが考えているんだ」という話しをした。
「たぐちさんは、内的と向き合うというのは、どういうことだと思うんですか?」
と聞かれたので、わたしは「わたしを体験することだと思う」と答えた。
内的と向き合うという、ことは、どこかに内的というものがあるのではなくて、私の感情をありのままに体験することなんだと思う。私は私の感情……とくに、あまり自分にとって都合がよろしくない感情に関しては体験するのを避けようとしていると思う。その感情を、なるべく頭で考えず、思考で合理化することなく、素直に体験することが、自己の内的と向き合うということなんじゃないかなあ……と。
「こころと身体」ということを、多く作品のテーマにしてきたし、自分でもずっと考えてきた。「からだの声を聴く」ということも、慣用句になっていて、あまり深く考えられずに使われているけれど「からだの声」というのは、感覚で、快感、不快感、異物感、痛み……といったものだ。多くは不快であり、この不快感と感情というのが、強く強く結びついていることは、もう疑いがない、
でも、いったい感情とはなんなのか……と考えていくと、感情と感覚というのは違っていて、私たちが通常「感情」と呼んでいるものには、実は「ことば」が伴っていて、ことばで思考することで「怒り」や「憎しみ」というものははっきりと具体化されてしまう。でも、ことばを使わないで、ただ、怒りを感じることに専念してみると、怒りとは身体感覚で、やがて消えていく……。
喜びは、ことばを使わないで感じることのほうがおおい。私は喜びを感覚的に感じている。喜んでいるときにそれを言葉にしてリフレインしたりしない。感覚として感受する。怒りは、怒りの原因を何度も何度も繰り返し言葉で思考したりして味わってしまうのに、喜びは、ことばではなく「ああああああ……」という感嘆符のようなものとして感じているのだ。どうして、怒りだけが思考とこんなに結びついてリフレインされるのか……。損だな、と思う。
わたしを体験する……ということはとても難しい。わたしの心の動きを観察するということだし、わたしのご都合主義を……目の当たりにすることになるからだ。でも、大きな理不尽な出来事というのは、人間を矛盾に陥れ、いやおうもなく「わたしを体験」させてしまう。そういうことが、一年前にあったのだから、多くの人がこころのなかを探ろう、体験しよう、知ろうと思うのは、必然なのだし、できれば、これからブログにも、そういうことを書いていきたいと考えています。