数字が示すこと
2012年 05月 23日
twitterのフォロワーの数は、わたしの考えの正しさの評価のようになってしまう。
そう思ってはいないのだけれど、ことばを発して、それが予想以上にたくさんの人のリツイートされると、ああ、このことばは「多くの人に届いたんだな」と錯覚してしまう。だんだん、数が気になりだす。
ブログにも何人がツイートしたか表示されると、数の動向が気になりだす。
そういうことが積み重なっていくと、ほんとうに自分がどうしたかったのか、すこし、あいまいになっていく。
本だって、売れればうれしいし、売れなければ悲しい。昔からこうだったかな、と、思う。
自分の心もちが、変化していることになかなか気がつけないから、すりへっていくんだろうな。
子どもの頃から、通知表には数字が並び、テストには点数がつき、かけっこには順位が……。
それは学校という場所で学力をはかるためのものとして割り切り、数字で評価ができる学力なんて、どうってことないとおもい、
そうじゃないことを、楽しんできたはずだったのに、いまやあらゆる場所に小さな数が並び、それを気にする。
フェイスブックのお友達の数は多いほどいいんだろうか……。
なにかがすごくズレてしまっていて、そろそろ辛くなってきた。
こんな年になって、数という価値と向き合うことになるとは、思いもしなかったけれど……。
この数が真実かどうかなんて、わからないし、数の実体を知るよしもないのに。
増えたり減ったりする数字がいつも、パソコン画面のどこかにあるような情況……以前は、なかったなあ……と思う。
なんだか、気がつかないうちに、ちょっと不自由になってしまったと感じるのは、純粋に私のこころの問題で、つまりこころというのは、そんなふうに、束縛を受けやすく、とても弱い。
数字が表示されることが良い悪いというのではなく、その数字が心になにかしらの作用を及ぼしていることを、気にとめておかなければだんだん数字に侵されると思った。
わたしの心は、わたしの責任において、守らなければいけないんだ……と、最近、とくに、とくに、そう感じるのは、この世界が人の心になにかしら作用するたくさんの装置を、開発し、わたしを巻き込んでいるからだと思う。
ネットは大きく変わってきたし、リンクするように世界も……。
そのなかにあって、数字は、意識して、その影響について、自覚的にならないと、迫ってくる数という価値の強さに飲み込まれてしまう。
内側の世界において数字は、量を計るためのものではなく、評価のためのものでもなく、数字は象徴。シンボル。内側の世界におて量は、ほとんど意味をなさない。
そういう世界がこの現実に重なってここにある。