傷と気づき
2012年 02月 27日
実は、なぜ過剰なエロスを描きたいのか……ということについて、もちろん私はまったく自分でわからないで、十年以上が過ぎてしまった。それは、出てくるから書いてしまうのだ……としか言いようがない。
単純に解説してしまえば、それは作者本人の性欲の発露ということになるかもしれない。だが、性欲がたまっているなら現実にセックスすればいいわけで、それを書いたから発散できるというものではないのであり、書いてしまうほうが逆に性欲が高まるのではないか、と思う時がある。
正直に言うが、セックスを描いてしまうということと自分の性欲とはほとんど無関係だと思う。自分なりに十年を経て、そのような結論に達した。では、なぜか……。セックスを描けば売れるなどと思って戦略的に書いているわけでもない。そんなものは逆効果だと思う。私の読者は30代前後の女性が多く、あんなものは読みたくないのではないかと思う。そういうあざとい気持ちがあって書いているわけではなく、とにかく書かずば済まないので書いてしまうのである。
そして、昨年「私の愛した男について」という短い作品を描いてから、なんとなく、もうこういう性描写は最後かもしれない、もう書かないかもしれない、これが最後かもしれない……と思ったのは、描いているうちにその痛さ……のようなものに、自分が耐えられなくなったからだった。
これは自分でも不思議な出来事だった。描いている自分が傷ついていることにようやく自覚できたというべきか。しかし、なぜ「痛いのだろうか」と、また自分でしばらく考えてみたのだが、なかなかわからなかった。自分の心というものは自分が一番わからないものだ。都合の悪いことはわからないように防衛しているからだろう。
性というものは、私のなかに残っているかなり「野性」の部分だと思う。「野性」というのは抽象的な言葉なので、なにをもって野性とするか人によってずいぶん違うと思うけれど、私にとっての野性は本能に近いかもしれない。本能というものを人間はなかなか意識化できないけれど、セックスは誰もが体験できるのに特殊な行為であるから……男女が密室で裸になる、というのはそれなりに特殊な状況であると思う……意識化しやすい野性という意味だ。
私はたぶん血筋的なこともあると思うのだけれど、思春期の頃から感情的で興奮しやすく、情緒不安定な自分というものを、どうやってコントロールして社会生活を営んでいくか、それがずっと大きな課題であり、挫折を繰り返しながらも必死でバランスを取り、社会の中で落ちこぼれないようにがんばってきた。
外側から見れば自分で会社を作ったりして、それなりに立派な社会人をやっているように見えたかもしれないが、20代から30代は暴れ馬に乗っているような感じで、自分の野性をなだめて走らせることに全精力を使ってきたと言ってもいい。エネルギーも並外れて大きいが、暴走したら身の破滅であることは理解していた。
境界性人格障害の父も、引きこもりで死んだ兄も、たぶん自分の中から吹き出してくるえたいの知れないエネルギーを、うまく解放することができなかったのだと思う。もしかしたら、私は二人を間近で見ていたから「失敗したら危ない」という危機感を常にもっていたので、十代の頃から心理学書を読み、サイコドラマのワークに参加したり、分析を受けたりして、無意識からわきあがってくるエネルギーの一部を社会生活や趣味に使う方法を習得していったように思う。
私の趣味の範囲は相当に広く、特にマリンスポーツ……ダイビング、ヨットレース、シーカヤックなど、わりあいと命がけのことばかりチャレンジしてきたが、それも、海という無意識の象徴と対峙し、命をかけて自分をコントロールする方法の習得だったかもしれない。
40代から作家の仕事を始めて、私はたぶん自分の中にあるとても暗い野性というか、女性性の暗部のようなものを、あえて書くことで表出したかもしれない。それは常に「侵食される性」として捉えられてきた。そのように女性性を感じていたのは私が家族として過ごした父や兄による、母への偏った愛情表現によるのかもしれない。
暴力を受ける母親……というものは、私の中にとても根強く残っている。それは、あまり記憶にない……ということに証明されるように思う。映像の記憶としてはほとんど2つくらいの場面しか思い出せないのである。あとはすべて、無意識の底に沈んでへどろと化しているのだろう。
忘却してしまいたいことを、別の形で意識化していたのかな、と思う。ある意味、私の女性性は(あくまでも内的に)傷を受けていたようだ。それを回復することができたのかどうか、私にはわからない。少なくとも、性を描くということは、回復するどころか傷口を広げていたような気がする。
作品というものに投影された「暗い野性」に、たぶん読者のある一部の方は傷つけられ、読みたくないと感じたと思う。そして、ついに自分もそれに傷ついてしまうようになったことは、ほんとうに意外な気づきだった。私は自分の作品によって自分がずいぶんと癒えてきたけれども、激しい性描写の作品によって癒えたと感じたことは、そういえば一度もなかったことに驚いた。
では、なんでわざわざ自分を傷つけるために書いていたのだろうか……と不思議だった。もしかしたら自傷行為のようなものだったのか。人間の心はわからないものだなあ……と思う。たとえそれが外側の世界の思考からすれば、無意味で無価値に思えようと、それが出てきたということは私の内面の世界にとってはどうしても必要なことだったのだろう。どう必要なのか、理論的に考えてもわからないかもしれない。
とにかく、私が学んだことは「無自覚に外部に投影した野性によって自分がダメージを受ける」ということだった。
それはあらゆる暴力に関してそうなのだ……ということだ。他人を殴ることでも、リストカットでも、人を口汚くけなすことでも、子どもを感情的に叱ることでも……。外に向けて放った暗い本能で傷つくのは相手と同時に自分で、それは外傷ではなく内傷で、外傷は時とともに治っていくけれども、内傷は自覚することによって意識の光を当てないと回復できないものらしい。
内傷によってなにが起きるかといえば、魂の一部が岩にこびりつくフジツボのようなもので覆われてしまうということ……のように感じる。これは私の、私だけが感じるイメージにすぎないけれど、ある部分がとても固くなってギザギザになっていたような感覚があるのだ。だが、ギザギザになったから気づけたのかもしれない。
そういう感覚的な気づき……のようなものが、なぜ感じられるようになって、ああ、もうこれで終わりだなと思えるようになったのか……。たくさんの時間が経過したからとしか言いようがない。
いつか、この気づきについて、……この名状しがたい不思議な感覚について、他者に伝えられるような物語にできたらいいなと思うのだけれど、まだ当分、時間がかかりそうだ。