わたしのダンス
2012年 01月 12日
書き続けていることのほうが不思議な気がする。いつも長編を書くとき「このお話を完成できるのかな?」と不安に思いながら最初の一行を書く。私はノンフィクションもたくさん書いているけれど、だんだん、小説とノンフィクションの境目があいまいになってきた。いま、小説新潮で連載させてもらっている「サンカーラ」は小説ともエッセイとも言えないもので、連載を始める時に「どちらにしたらよいか?」と編集部から聞かれて困った。
「中間みたいなものです……」と答えて、結局小説として扱ってもらえた。明治の頃の作家たちは、小説ともエッセイとも言えないものをたくさん書いていたし、芥川龍之介などはかなりいろんなジャンルの作品を自由に書いていて、作家は昔よりも制約が多く不自由になっている気がする……。特に言葉に関しては、使えない言葉が増えすぎている気がする。
個人的にはだんだん小説のほうが好きになってきた。どうしてだろう。理由はよくわからない。小説を書きたいという思いのほうが年々強くなっている。今年も小説を書けたらいいなあ。小説はなにかがふっと降りて来ないとなかなか書けないのだけれど、それが楽しいと思えるようになってきた。
連載が苦手で、なかなか小説誌に書けないでいたのだけれど、小説が好きになってきたせいか、今年はオール読物にも読みきり連載を掲載している。「ゾーンにて」という、福島の放射能をテーマにした作品で、この連作は自分にとって初めての試みをたくさんしていて(作家にとってはあたりまえのことなので、あくまで私がいままでできなかっただけ)、書いていて小さな発見がたくさんある。
長編にとりかかろうと思っていた矢先に目の手術をしたので、執筆開始を伸ばしている。
年末に最新刊「私の愛した男について」(角川書店)を出版した。表題作は恋愛小説のつもり。他に3篇の短編を収録しているが、そのなかの「森に還る人」と「命につけし名は」に二作は、「ことば」がテーマである。
わたしたちは「ことば」をもったために、この世界を創造もできるけれど、そのことばに縛られて自由さを失ってもいる。とりわけ「ことば」による名づけによって、失われているのは「固有の体験」ではないか。ことばのもつ光と影の部分をそれぞれに書き分けてみた。もちろん、こんなことは作者の一人よがりであって、読者には関係ないことかもしれないけれど……。
「私の愛した男について」という作品の構想はずいぶん昔からもっていた。ただ、書かなかっただけで、こんな話を書きたいという思いがあった。ずいぶん昔に職場の上司と不倫をして、不倫相手の家に放火して子ども二人を殺してしまった女性がいて、その女性のことが頭から離れず、彼女はどうして火をつけなければならなかったのか、その行為から逃れる道はなかったのか……ということを考えていて、それで、この作品を書いた。
小説というのは多くが人間の心の葛藤を描いており、誰もが心に葛藤をもっているはずだが、葛藤していることに向き合わずにいる人が圧倒的だと思う。なぜなら、いまの時代には葛藤から目を反らしてくれるものが多すぎるからだ。世界にはありあまるほどの娯楽があって、暗い夜を一人で音もなく過ごすことなど、停電の日くらいだろう。それだって、携帯電話に充電してあれば誰とでも繋がれる。
被災する……という体験は、恐ろしく苦しいことではあるけれども、そのような体験を通して暗く一人きりの夜を過ごすことは、その人の人生にとってただ「悲惨なことを経験した」という以上の、自分自身と向き合う時間をもたらしてくれたかもしれないと思う。そうであればいいなと思う。困難や苦難というものには孤独がついてまわるけれど、孤独の裡にしか自分の精神にとってほんとうに大事なものとは出会えないということを、過去のたくさんの文学作品が伝えているから……。
孤独な暗い夜、一人きりの狂おしい夜というものを避けている人にとって、葛藤をテーマとした小説はたぶん無意味なのだろう。あえてそんな辛いことを誰も思い出したくないだろう。でも、やはり小説のテーマは自分の心のなかにわきおこってくる対立する衝動と、どう折りあって自分らしく生きるのか、あるいは生きれないのか、ということになっていくように思う。
わたし自身、いまだに心の裡にある対立する衝動、自分のなかの相対する二人の自分の対決に巻き込まれて、さまざまな社会的な問題と対峙するときでも、自分の心の葛藤との折りあいをつけて、冷静に考えることが難しいことが多々ある。けっきょくのところ、原発の問題も、政治的な問題も、その問題を考えているわたしの内部にある二つの意見、二人のわたしの言い分を両方聞き、そのどちらに対しても平等に扱うということでしか、外的問題にクールに対応することはできないのではないか……と思う。
そのような内的な世界を育てていくために、わたしは本を読んできたし、たぶん死ぬまで読書はわたしの社会性を支えてくれる、たいせつな修業のようなものであると考えている。自分が作家という仕事についていて、読者に対してその内的世界を育てていくような作品を書いているかどうか……、正直、自信がないが、もしこの世界に、たった一人でも、わたしの作品を読んで、なにかを感じてくれる人が存在するなら……それで最高である。
創作はわたしの自己表現であり、わたしがわたしであるという確認行為でもある。それは誰に向けて書かれたというものではないけれど、わたしの書く動機のほとんど99%を占めているのは、宇宙にわたしを知ってほしいという願望である。宇宙空間で一人でさまよっている宇宙飛行士が無限宇宙に向けて発している信号のような、ものなのだと思う。わたしはここにいます……わたしはここにいます……。
この信号は決して悲壮なものではなく、どちらかといえば、宇宙の辺境を飛行しながら、その軌跡を残しているような感じかもしれない。その軌跡の描く物語が、わたしのダンスなのだ。