情熱に対して人はいつも受け身である
2011年 11月 14日
「自分にとって都合の悪い人、いやな気分を与える人、苦手な人、そういう人が自分を一番育ててくれるものだ。そういう人がいなかったら自分は成長などせず同じままだよ……」
などと私が言ったのは、自分の父親を思い出してのことだった。あの父が死んでからもう三年が経ち、もうすぐ四年目に入る。寒くなると父のホスピスに通った日々を思い出すのだ。ほんとうに大変な父親だった。酒乱のあげくアルコール依存症になり、おまけに境界性人格障害でめちゃくちゃな人だったが、あの父がいなかったら……今の私はない。それは絶対にそうなのである。私の人生はひたすら父との葛藤と闘いの人生だったが、結果的に私は父を尊敬し好きである。なにかと父を思い出す。そして父亡き後、私をあれほど困らせ、怒らせ、悔しがらせ、悩ませ、落ち込ませ、奮い立たせる存在がこの世界にないことを、とても淋しく思うのだった。父が死んで、私の人生はたいへん安定した。ハラハラし、ムカムカし、ショックを受け、泣き叫ぶようなことはなくなってしまった……。同時にそのような感情から立ち直り、自分を見つめたり、相手を理解したり許したりするくだんの努力もしなくなってしまった。なにか自分は父が死んでからどんどん傲慢になっているように思えて怖い。
そんな話を娘としていたのである。娘は自分が苦手な学校の先生を思い出したようで「じゃあ、あの先生のおかげで私は成長したのかなあ……」と言う。
「うん、それは間違いないね、ものすごく成長した。がまん強くなった」
「そうだよなあ……。確かに」
「だからね、あなたも誰かの嫌な奴になることを恐れちゃだめだよ。嫌われることを怖がっていたら、誰の役にも立てないからね」
「えー? 嫌な奴でもいいの?」
「いいんじゃないの。だってそういう人がいなかったら他の人も成長できないわけだし。お互いさまってことだよ」
ともあれ、私が誰にとっていい人で、誰にとって嫌な奴か、それを決めることはできない。決めるのは相手なのである。私は同じ私であり、私の好き嫌いは相手が決める。これはもうどうしようもない。受け入れるしかないのである。そのことを作家になってから嫌というほど学んだ。同じ私を好きな読者もいれば、さげすむ読者、呼び捨てにして毛嫌いする読者もいる。私は私の評価に対して無力である。
だから、どう生きるかは自分で決めるしかない。相手に合せていたら気が狂う。そしてまた、私が誰かにとって私が誰かにとって嫌な奴であるなら、きっとその人の人生になんらかの貢献をしているのである。少なくとも、私は私が苦手な相手、私にとって都合の悪い相手からさまざまな事を学んできた。愛であれ憎しみであれ、感情が動くということは、その相手となんらかの見えない繋がりがあるのだ。それは私が選んだものというよりも、おのずからそういうことになっているような不思議な感覚であり、受け入れていくしかないのだろう。
おととい、竹内さん、上田さんと鼎談が終った後の飲み会でも、同じような話題が出た。そのとき「パッションは常に受け身である」と竹内先生が言う。「恋愛のような情熱も、自分が好きになろうとしてそうなるわけではなく、どうしようもなく好きになってしまう。つまり、情熱に対して人間はいつも受け身なんだ……」と、
すると、上田さんがしみじみと言ったのだ。「そういえば、パッションには受難という意味もありますねえ」
激しい感情体験は苦しみである。愛することも信じることも自分の自我を超えて、逃れることのできない情熱につかまって起る。それは確かに身を焼き尽くすような苦難をも伴い、受難だろう……。
でも、それを体験することが「生きている」って感じなんだよなあ……と思うようになった。そんなことを思うのは、父が死んであまりにぼんやりと幸福だった三年の休息期間、自分のなにかが少し失われたように感じたからかもしれない。

