状況のなかの沈黙について
2011年 09月 21日
賛成か、反対か。
それを決めなければ先に進めない……という場面はたくさんあります。いまがまさにそうかもしれません。「いまこそ脱原発に向けてアクションを起すとき」という意見に対して、私は反論はありません。でも、私は「対立して多数決で決着をつける」という方法論の必要性は認めつつも「それでほんとうになにかが解決できるわけではない」ということを感じています。
そして「対立」によって「失われること」について書いてみたいと思ったのです。私は異なる意見というものは「それぞれに補完しあう関係」として受け止めます。そのように見ることをあえてしてみます。
脱原発のデモの行く人に対して、デモに行かないというスタンスをとる人は、デモに行くという行為と対立しているのではなく、デモに行くという行為によって削ぎ取られるある部分を補完している……と考えるのです。
このような考え方は「行動しなければ意味がない」と考える人には無意味だと思われることもあります。きっと私のような態度はいいかんで曖昧に映るのであろうし、それを優柔不断、言い逃れと言われても、そう見えるのであれば受け止めましょう。でも、年をとればとるほど、善悪をはっきりさせて態度を表明することに違和を感じもやもやとしてしまうのです。
私は「原子力」というものがエネルギーとして使用されることに兵器であろうと発電であろうと全く賛同しません。原子エネルギーの発見から利用までの経緯には、まともな議論がされていない。それは歴史上明らかなのです。常に国家間の政治闘争、イデオロギーの対立のために利用されてきた。その経緯は「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」にはっきりと書きました。
では、いま現実的な問題として「原発に賛成か反対か?」という議論になると、その問いの立て方に対して、少しだけ納得がいかなくなります。
「そんな事を言っている場合ではないだろう?」と言われることはわかります。でも、《問い》は大事なことなのです。《問い》とは常に《答え》を孕んでいるからです。
いま「原発に賛成か反対か?」という問いには、対立が孕まれています。対立とは相互運動なのです。問いの立て方自体を変えなければ、今後、状況が変われば答えが逆転するという、二項対立の最もありがちな構図、ただイエスとノーの間の反復運動が繰り返されるという惰性におちいることを危惧しています。
私がこの《問い》の《答え》として「反対です」とお答えすると、賛成する人との「原発のメリット・デメリットの議論」になっていきます。そこに落とし穴があることを予感るすのです。
よく意識を変える、価値観を変える……という言葉が使われますが、これはどういうことでしょうか。
「いまこそ意識を変えるとき、新しい選択をすべきとき」と頻繁に聴くようになりました。価値観を変える……ということは、それまでその価値によって成り立ってきた自分の世界観を捨てる、つまり、自分の世界を一度、崩壊させるということに他なりません。でも、さまざまな議論を見ていると、おおむね意識を変える……ということは向いておらず、せいぜい「がまんをする」と同義で使われているように思えてならないのです。
「原発のない世界でみんなで不自由をがまんして生きよう」ということを言われているのであり、意識はいまのままなのです。なので、原発に賛成か反対かの議論は「がまんできるか」「がまんできないか」の議論となることが多く、原発がなくなることにがまんできる人は、原発反対なのです。逆に、原発がなくなることのデメリットにがまんできない人は、反原発に対して反対なのです(ここで微妙なのは、反(脱)原発反対の人が原発推進とは限らないことです)。
生命や子どもの安全という問題は、この「原発がなくてもがまんする生活」を正当化するために使われがちです。
「原発がなくてもがまんする」ことの正当な理由として「放射線による生命の危険」「自然破壊」などがあげられがちです。誰しも放射能は恐ろしいので、この理由は絶大な説得力をもっています。にもかかわらず「原発がないと困る」人たちを説得できないのは、議論が「がまんできるか、できないか」という次元にあり、生命はその理由づけとして使われているだけで、生命そのものが問題の対象とされていないからだと思うのです。
議論が「賛成と反対」に分かれたときは、もう相手を打ち砕くしかありません。数か力で……です。言葉は説得の材料として使われるだけでコミュニケーションの役目を果たさなくなります。お互いを理解しようといる努力は消えてしまいます。自分が正しいと思う人は、他者の意見は「正気の沙汰とは思えない」と感じます。そうなったら、もう話しあいは成立しません……。
意識が変わる、価値観が変わる……というのは「いまの現状をがまんするか、しないか」ではなく、「自分が丸ごと変わってしまう」ことなのですが、そうなったときに私は元の私ではいられなくなります。それは死の体験と等しいほどのものかもしれません。信じていたものが無価値になり、自分の人生の意味すら消えてしまいそうになります。そんな恐ろしく辛いことは、たいがいはしたくないので、誰しもが自分はいまのままで、相手にだけ変われと要望する。それが対立という構図なのです。
「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」はその対立の構図を歴史的に俯瞰しながら書いた本です。ですから、この本をもしじっくりと読まれたなら、単純に「反対」とも「賛成」とも言えない、なにかすべてがからみあった因果であるのを知ってしまった揺らぐ自分というものが生まれてしまうかもしれません。それは、とても不愉快であろうし、都合が悪いものであり、たぶん見たくないかもしれません。
人間は説得されて変わることはありません。でも、感化されて変わることはあります。自分がそれまでの考え方を変えたときのことを思い出してみてください。必ず、誰かが存在しませんでしたか? 強い確信と信念をもってひたむきに熱烈に生きる《他者》の存在と出会う。その出会いの感動によって、説得などされなくても自分が変わってしまったという経験。それは、力で起るものでもなく、数によって起るものでもなく、洗脳でもなく、喜びに近い衝撃とともに自らの裡に発現してくるものではなかったでしょうか……。
社会が変わっていくときには大きな流れが起ります。力が働きます。その力に抗うことはできません。でも、力では変えられないもの、それが人間の心だと思います。そして、物事には本質的な解決はありません。なぜなら、すべては常に移ろい変化し、一瞬たいとも静止することなどないのですから……。この「本質的な解決はない」という巨大な宇宙的現実を見ないで、短い時間軸のなかで解決を急いていくことで、損なうものがあることを、痛みや悲しみとして受け止めていくこと……。
この冷徹で解決しようもない現実を認識することで生まれる謙虚さや敬虔さをまといながら熱烈に生きている人に、私はいやおうもなく感化され変えられてしまうことがしばしばあります。この感化の連鎖のなかに小さな人類の魂の成長のようなものがあるのかなあ、と思うようになってきました。
なにも損なわないで出来る事などないのであり、解決もないのであり、それでも変えていかなければならない。それは、高揚を伴うような正義の感覚ではなく、非常に抑うつ的で、無情で、うんざりするような不安定な心境を伴うのです。でも、その悶々とした抑うつのなかにこそ他者への拓きがある。なにが正しいかわからなくなっているから、人の意見を聞きたいと思い、意見を聞く人たちに向けて、語られていく言葉のなかに、また、微細な変化が起こる。それは、短気な人にとっては「悠長すぎる」方法論かもしれませんが、私には最良にして最短の道に思えてなりません。
私たち日本人は高度成長、バブル経済という妄想的な分裂状態を経て、非常に深い抑うつ的でメランコリックな気づきの時期に入ってきているように思います。この状況のなかで沈黙することは、なんらかの形で世界のバランスをとっているように思えるのです。
私は次に「水俣」のことを書きたいと思っています。水俣病の歴史から、私は「対立」と「対立を越えるもの」を学んできました。水俣との関わりがなければ今のようなものの見方に至ることはなかったと思っています。そのことを、若い方たちに伝えたいという強い思いがわいています。
「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ 原子力を受け入れた日本」ちくまプリマー新書