佐野史郎さんの「風の又三郎」
2011年 05月 31日
宮澤賢治の「風の又三郎」をノーカットで朗読。薩摩琵琶と舞踏とのコラボという実験的な試み。二時間の朗読を聞いたのは初めてで圧巻だった。
「風の又三郎」は不思議な転校生と岩手の子どもたちの短い夏の出会いと別れが描かれている。南部煙草の葉の産地であった大迫を中心に早池峰のふもとの風景がていねいに刺繍するように綴られた美しい小説。しだいに朗読の世界に入っていくと、あのミルクみたいな濃い霧や、水晶のような渓流が脳裏に浮かび上がってくる。一時間もすると、映画を観ているように言葉が映像として見える。それが朗読の楽しさで、つい目を閉じて脳内映像に集中してしまうので舞踏の人には申し訳なかった。
落語と同じ。語りが脳内で映像として見えてくるようになると、自分だけの映画を観ているような感覚になる。カット割りも、アングルも自分の脳が編集しているのだけれど、それは無自覚に自動的に行われるので白日夢のようでもある。見えないぶんだけ、脳が視覚を補強してくれるため、はっきりと絵が浮かぶ。その楽しみを覚えてしまうと、朗読を聞くのは、幻覚物質でトリップしているような感覚になる。
実際、マジックマッシュルームでトリップしている時には、目を閉じると音楽がサイケデリックな映像となってはっきりと見える。あらゆる音が色と形に変換されて動き出す。シラフの時はさすがに色の質や明度、彩度は落ちるけれど、集中して朗読を聞いていると似たような状態に入ることができる。風景の細部を見ようとして意識を集中すれば、どこまででも奥に入って行ける……という、あの感じを、体験できない人はまったく体験できないらしい。
落語好きの友人が「落語が好きか嫌いかは、言葉を映像で見れるかどうかの違いかもしれない」と言っていたけれど、たぶん、朗読もそうなんじゃないかな……と思う。よい語り手の朗読であれば、脳内の映像はより鮮明になる。それは語りが自然だから。耳障りの悪いイントネーションなどで集中力が途切れることがないと、どんどん、脳内映像の世界が展開していく。
二時間という時間は、「風の叉三郎」のなかの早池峰の大自然に潜っていくには十分な時間で、六本木にいながら、あの岩手の夏の山々を歩き回って帰って来たような不思議な気分になった。二時間を読み切るのは読み手も大変だろうけれど、佐野さんが最後に言っていたように、朗読は読み手と聴き手がいっしょに緊張感を維持しながら場を作るという、実は観客の自己関与度がものすごく高い芸能なのだ。聴き手の聞く力が読み手と呼応していく。実は聴き手と読み手は無意識で対話している。
聞くことは「受け身」な行為ではない……ということを、朗読を体験していつも再認識するなあ。
東北の自然への鎮魂のような朗読会。すてきだった。
同時に、自分でも二時間くら読みきってみたい……という妙な野望がわいてきてしまった。
朗読、やっぱりおもしろい。精進しよう。

