ことばを見つめる
2011年 05月 24日
3月11日の地震のあと、いろいろな場面で「被災者の方にメッセージをお願いします」と言われることが増えました。
私はこのお願いをされたとき、いつも、とてももやもやとした気分になります。
なにが私を、もやもやいがいがした気持ちにさせるのだろう。理由のひとつは「被災者」という言葉にあります。私は「被災者」という言葉が苦手です。自分に対しても使ってもらいたくない言葉です。「被」という漢字がつく言葉全般が苦手です。
「被害者」「被災者」「被爆者」……これらの言葉はいったいどういう意味をもって私の心に入ってくるのかを考えてみました。
この「被」は「被る(こうむる)」「被る(かぶる)」という意味の漢字です。とすれば「被災者」とは「災いをかぶっている人」ということになります。災いを被っている。被るはもともと頭のついた動物の皮をすっぽりとまとうということを指しています。
となれば、災いという現象を被った人は、それを被っている限りにおいて、その人の本質は隠されてしまいます。いま目の前にいる方を被災者と呼ぶとき、私たちは「災いを被った人」と称して、その人の本質、その人のありのままを見ていません。それが怖いのです。
そもそも、人は「災いを被った人」と呼ばれたいものでしょうか? 私はとても抵抗があります。どちらかと言えば、それは言葉によって「被らされてしまった」もののように感じます。つまり、本人の意思には関係なく、私たちが誰かを「被災者」と呼ぶときには、その人の本質を、こちらの都合で「災い」という言葉の衣で覆い隠しているように感じるのです。
ですから、この言葉が連呼されるとき、なにか暴力的な……他者に対するとても強い、立場の強制として感じてしまうのです。この言葉によって、ひとりひとり個人がもっている歴史や、思い……そういうナイーブなものが、すべて削ぎ落とされ、同じ模様の服を着せられたように感じてしまいます。たぶん、被災者と呼ばれた方は、心のどこかでそれをうっすらと感じて傷ついていらっしゃるのではないかと想像します……。
でも、この言葉は歴然としてあり、その言葉のもつなにかとても支配的な暴力的な力に、うすうす気づいてはいても、つい皆が使ってしまうのです。それが、言葉のもつ恐ろしさではないかと思います。
では、どう言ったらよいのだ? どんな言葉を使ったらいいのだ?
そうです。その通りです。そして私はいつもそれを考えています。とにかくこの言葉を使わないで思いを伝えたいと。すると、もう語ろうとする文脈そのものが変化してしまうのです。
私はだれに対して、言葉を発するのか? 被災者という言葉を自分に禁じると、漠然と見も知らない人たちに言葉を発することができなくなってしまうのです。そこに、個人が見えていないと、なにを言っても「虚しい」ことに気がついてしまうのです。
いま、私の知りえないたくさんの方たちが、どんな状況で、どんな心情で、どんな生活を送っておられるのか、それはほんとうに様々だと思うのです。それをひとくくりにする言葉を失えば、私はただ、自分のことを語るしかなくなってしまうのです。
私は東北が大好きで、よく旅行に行きました。旅先で出会った人たちにほんとうに親切にしていただきました。東北の海や山は素晴らしくて、たくさんの山を歩き、海で遊びました。おいしいものをたらふく食べました。東北に残る民族芸能、食文化、いろんなことを学び、縄文時代から伝わる精神性に魅せられてきました。その思いはいまも変ることがなく、ありがたく、だから、私はこれからも東北に通いますし、旅をしますし、東北のことを見つめ続けます。なにが起こるかを注意深く見聞きし、理不尽なことには発言し続けます。
……そのような自分の思いを語るしかなくなってしまうのです。それを聞いている人が誰なのか、読む人が誰なのかわかりません。相手は見えないのです。ただ、私という個人がなにを思っているのかを、表現するしかなくなります。
でも、そのほうがほっとするのです。そして、自分がどうしたいのかが、おぼろげに確認できたりするのです。
私はこのお願いをされたとき、いつも、とてももやもやとした気分になります。
なにが私を、もやもやいがいがした気持ちにさせるのだろう。理由のひとつは「被災者」という言葉にあります。私は「被災者」という言葉が苦手です。自分に対しても使ってもらいたくない言葉です。「被」という漢字がつく言葉全般が苦手です。
「被害者」「被災者」「被爆者」……これらの言葉はいったいどういう意味をもって私の心に入ってくるのかを考えてみました。
この「被」は「被る(こうむる)」「被る(かぶる)」という意味の漢字です。とすれば「被災者」とは「災いをかぶっている人」ということになります。災いを被っている。被るはもともと頭のついた動物の皮をすっぽりとまとうということを指しています。
となれば、災いという現象を被った人は、それを被っている限りにおいて、その人の本質は隠されてしまいます。いま目の前にいる方を被災者と呼ぶとき、私たちは「災いを被った人」と称して、その人の本質、その人のありのままを見ていません。それが怖いのです。
そもそも、人は「災いを被った人」と呼ばれたいものでしょうか? 私はとても抵抗があります。どちらかと言えば、それは言葉によって「被らされてしまった」もののように感じます。つまり、本人の意思には関係なく、私たちが誰かを「被災者」と呼ぶときには、その人の本質を、こちらの都合で「災い」という言葉の衣で覆い隠しているように感じるのです。
ですから、この言葉が連呼されるとき、なにか暴力的な……他者に対するとても強い、立場の強制として感じてしまうのです。この言葉によって、ひとりひとり個人がもっている歴史や、思い……そういうナイーブなものが、すべて削ぎ落とされ、同じ模様の服を着せられたように感じてしまいます。たぶん、被災者と呼ばれた方は、心のどこかでそれをうっすらと感じて傷ついていらっしゃるのではないかと想像します……。
でも、この言葉は歴然としてあり、その言葉のもつなにかとても支配的な暴力的な力に、うすうす気づいてはいても、つい皆が使ってしまうのです。それが、言葉のもつ恐ろしさではないかと思います。
では、どう言ったらよいのだ? どんな言葉を使ったらいいのだ?
そうです。その通りです。そして私はいつもそれを考えています。とにかくこの言葉を使わないで思いを伝えたいと。すると、もう語ろうとする文脈そのものが変化してしまうのです。
私はだれに対して、言葉を発するのか? 被災者という言葉を自分に禁じると、漠然と見も知らない人たちに言葉を発することができなくなってしまうのです。そこに、個人が見えていないと、なにを言っても「虚しい」ことに気がついてしまうのです。
いま、私の知りえないたくさんの方たちが、どんな状況で、どんな心情で、どんな生活を送っておられるのか、それはほんとうに様々だと思うのです。それをひとくくりにする言葉を失えば、私はただ、自分のことを語るしかなくなってしまうのです。
私は東北が大好きで、よく旅行に行きました。旅先で出会った人たちにほんとうに親切にしていただきました。東北の海や山は素晴らしくて、たくさんの山を歩き、海で遊びました。おいしいものをたらふく食べました。東北に残る民族芸能、食文化、いろんなことを学び、縄文時代から伝わる精神性に魅せられてきました。その思いはいまも変ることがなく、ありがたく、だから、私はこれからも東北に通いますし、旅をしますし、東北のことを見つめ続けます。なにが起こるかを注意深く見聞きし、理不尽なことには発言し続けます。
……そのような自分の思いを語るしかなくなってしまうのです。それを聞いている人が誰なのか、読む人が誰なのかわかりません。相手は見えないのです。ただ、私という個人がなにを思っているのかを、表現するしかなくなります。
でも、そのほうがほっとするのです。そして、自分がどうしたいのかが、おぼろげに確認できたりするのです。
by flammableskirt
| 2011-05-24 11:15