物語と世界
2011年 05月 02日
熊本県水俣で起こった水俣病という事件を考えることは、福島の原発の問題を考えることになにかしらの示唆を与えてくれるのではないか。水俣病の問題を第三者という立場から捉え続けてきた水俣フォーラムのイベントにおいて、私は「第三者という立場」について、いかに水俣フォーラムから学んできたかという話をした。
だが、ほんとうにしたかった話はもっと違う。水俣という土地で起こった事件の歴史的……というか、神話的な意味のようなものと、東北で起こった原発事故を重ねてみる……ということを、作家としては一番語りたかった。けれども、そういう、まさに第三者以前に神様みたいな視点のことを、やはりだらだらとしゃべるのははばかられたのだった。オマエは何様だ……という現代人の自分がいる。
でも、物語を書くものとして、出来事の背後にある物語性のようなものに興味や関心が寄ってしまうのはどうしようもないことだった。それが仕事なのだから。ただ、人前で語るべきことではないのかもしれないと思い、やめた。これは書くべきことなのだ……と。
5月1日の讀売新聞に、2月に出版した短編集の「蛇と月と蛙」の書評が載った。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20110502-OYT8T00436.htm
文化人類学者の今福龍太さんが書いてくれた。今福さんは不思議な学者だ。近年は離島での個人的な塾のようなものを主催していると聞いた。最後にお会いしたのは、詩人の山尾三省さんの記念イベントで、その時は今福さんの友人である、ノーベル賞作家のル・クレジオの話をした。
ちょどその時、ル・クレジオがノーベル賞を受賞したばかりで、私はひとしきり会ったこともない海外の作家の話を今福さんから夢物語のように語られたのだった。私にとってル・クレジオの小説はかなり難解であり、とっつき難い作家だった。でも、その作品は年とともに変遷していったのだと伺った。あきらかにあるときから、クレジオは世界を意味ではなく、詠嘆として捉えるようになったのだ……と。
私は今福さんの風貌や佇まいから、メキシコで出会ったシャーマンの男性と似た雰囲気を感じた。不思議な人だと思った。ル・クレジオと友人であるのだから、当然ながらこの世界のもう一つの成り立ち、いや無数の成り立ちを細目で透かして観るようなものの見方をする人なのだろうと思った。
私は旅行以外で日本を出たことがない。海外に暮らした経験のない私の世界の見方は相当に歪んでいるだろう。いくつのも文明を俯瞰し比較して捉えるような視点は持てそうもなかった。そのことを半ば悲しく思いながら、フランスとモーリシャス諸島に国籍をもつノーベル賞作家や、ブラジルや南洋の島々をフィールドワークしていく文化人類学者の生活に、小さな子どもが抱くような憧れをもったのだった。
以来、今福さんと会うきっかけもなく、三年の時間が過ぎてしまった。今回、書評という形で手紙をもらったような、うれしい気持ちになった。考えてみれば、作品というのは私からの手紙のようなものだ。私はいま、こんなことを感じています。こんなことを考えています。それが作品になる。そう思うと、もっとたくさんの手紙を、出会って、もしかしたら二度と会わないかもしれない人たちに、送り続けたい気持ちになる。
偶然、短い時間を共有して、楽しい会話をしても二度と会わない人はたくさんいる。人間の一生は短く、つきあえる人の数は限られているのだ。「蛇と月と蛙」は誰が読んでも面白いというたぐいの小説ではなく、精霊や蟲という人間の文明の蔭に生きているものとの淡い交流を描いただけの、意味もなければ、オチもないような小説なのである。もっと言えば私はもう人生に意味を与えることに疲れてしまった。そんな年になったのかもしれない。意味などないではないか……と思うのである。かりそめで、意味がないということにおいて、蟲も精霊も私も同じ存在なのだと思える。でも、私はいのちがひたむきであるということを、美しいと感じてしまう存在だ。意味がないくせに、世界に意味を与え続けている。この矛盾にいつもとまどう。
ただ、美しい!と感動すれば、よいだけなのだろうが……。まだそれができない。
いつか私にも、それができるようになるんだろうか。なるといいのだが。
だが、ほんとうにしたかった話はもっと違う。水俣という土地で起こった事件の歴史的……というか、神話的な意味のようなものと、東北で起こった原発事故を重ねてみる……ということを、作家としては一番語りたかった。けれども、そういう、まさに第三者以前に神様みたいな視点のことを、やはりだらだらとしゃべるのははばかられたのだった。オマエは何様だ……という現代人の自分がいる。
でも、物語を書くものとして、出来事の背後にある物語性のようなものに興味や関心が寄ってしまうのはどうしようもないことだった。それが仕事なのだから。ただ、人前で語るべきことではないのかもしれないと思い、やめた。これは書くべきことなのだ……と。
5月1日の讀売新聞に、2月に出版した短編集の「蛇と月と蛙」の書評が載った。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20110502-OYT8T00436.htm
文化人類学者の今福龍太さんが書いてくれた。今福さんは不思議な学者だ。近年は離島での個人的な塾のようなものを主催していると聞いた。最後にお会いしたのは、詩人の山尾三省さんの記念イベントで、その時は今福さんの友人である、ノーベル賞作家のル・クレジオの話をした。
ちょどその時、ル・クレジオがノーベル賞を受賞したばかりで、私はひとしきり会ったこともない海外の作家の話を今福さんから夢物語のように語られたのだった。私にとってル・クレジオの小説はかなり難解であり、とっつき難い作家だった。でも、その作品は年とともに変遷していったのだと伺った。あきらかにあるときから、クレジオは世界を意味ではなく、詠嘆として捉えるようになったのだ……と。
私は今福さんの風貌や佇まいから、メキシコで出会ったシャーマンの男性と似た雰囲気を感じた。不思議な人だと思った。ル・クレジオと友人であるのだから、当然ながらこの世界のもう一つの成り立ち、いや無数の成り立ちを細目で透かして観るようなものの見方をする人なのだろうと思った。
私は旅行以外で日本を出たことがない。海外に暮らした経験のない私の世界の見方は相当に歪んでいるだろう。いくつのも文明を俯瞰し比較して捉えるような視点は持てそうもなかった。そのことを半ば悲しく思いながら、フランスとモーリシャス諸島に国籍をもつノーベル賞作家や、ブラジルや南洋の島々をフィールドワークしていく文化人類学者の生活に、小さな子どもが抱くような憧れをもったのだった。
以来、今福さんと会うきっかけもなく、三年の時間が過ぎてしまった。今回、書評という形で手紙をもらったような、うれしい気持ちになった。考えてみれば、作品というのは私からの手紙のようなものだ。私はいま、こんなことを感じています。こんなことを考えています。それが作品になる。そう思うと、もっとたくさんの手紙を、出会って、もしかしたら二度と会わないかもしれない人たちに、送り続けたい気持ちになる。
偶然、短い時間を共有して、楽しい会話をしても二度と会わない人はたくさんいる。人間の一生は短く、つきあえる人の数は限られているのだ。「蛇と月と蛙」は誰が読んでも面白いというたぐいの小説ではなく、精霊や蟲という人間の文明の蔭に生きているものとの淡い交流を描いただけの、意味もなければ、オチもないような小説なのである。もっと言えば私はもう人生に意味を与えることに疲れてしまった。そんな年になったのかもしれない。意味などないではないか……と思うのである。かりそめで、意味がないということにおいて、蟲も精霊も私も同じ存在なのだと思える。でも、私はいのちがひたむきであるということを、美しいと感じてしまう存在だ。意味がないくせに、世界に意味を与え続けている。この矛盾にいつもとまどう。
ただ、美しい!と感動すれば、よいだけなのだろうが……。まだそれができない。
いつか私にも、それができるようになるんだろうか。なるといいのだが。
by flammableskirt
| 2011-05-02 14:49

