日常
2011年 05月 02日
29日は友人である文化人類学者、蛭川立さんに原稿の意見をお聞きする。
30日、世田谷に映画「降りてゆく生き方」の記念イベントへ。べてるの家の向谷地さんと東北の話をする。
5月1日、水俣フォーラムのイベント「水俣から福島を考える」に出席。講演する。東北からの参加者も多く、ひと言でまとめられがちな被災者が個別であることを実感。でも、実感はすぐに薄れて全体の色に馴染んでしまう。それを慣れと呼ぶ。実感は永続しない。薄れ行く実感のなかで、この瞬間に生きているということを、せつなく思う。感覚はコントロールできない。それをしようとして、人は修行するんだろうか。
動き回っていると、なにもかも一瞬で、わかったと思ってもあやふやで、言葉にすると嘘で、ほんとうのことなんてあるのだろうかと不安になる。なにも知らないのにわかったふりをして生きている。なにもできないのにできると錯覚して生きている。生きるということへの虚無感のようなもの。生活実感から一歩出てしまうと、自分をまとめられなくなってくる。生活するということがどれほど私にとって大切なことか。
朝、自分の家で目覚め、家族がいて、みそ汁を飲み、洗濯をすることを考え、猫のエサを与え、宅配便のおにいさんと短い会話をしたり、道路に落ちたサツキの花を拾い、行ってらっしゃいと言い、おはようと声をかけあうことで、紡がれていく自分の日常のなかでようやく、ほっとする。
多くの人が失ったのは、この日常の営みなのだろう。そして、取り戻そうとしているのもきっとこれなのだ。ここにあるものはとても些細で小さなものだ。同じことの繰り返しだ。ごはんを作り、食器を洗い、片づけて、洗濯して、掃除して、寝て、また起きて……。そういうことが、たとえば日々、身体に生起してくるという細胞のガン化を押さえ、気持ちのとげとげをなだらかにし、疲れをとり、生きる気力を与えてくれているのだと、はっきり思う。暮らすということを、ていねいに、続けている人のそばにいることで、多くの人が救われるのを見てきた。

