コミュニケーションの回路ができなければ、世界は悪循環に陥る
2011年 03月 21日
田口ランディ
■きっかけは東海村の臨界事故
私が原子力……しいては核エネルギーというものと向きあうようになったのは、1999年に起こった東海村の臨界事故がきっかけでした。メールマガジンを通じて知りあった元JCO(事故元の企業)社員のSさんと、臨界事故に関する意見をメールで交換しあい、それを当時は10万人の購読者がいた私のメールマガジンに掲載しました。
東海村での事故当時、やはりさまざまな噂が飛び事故の詳細は、一般人の私たちにはよくわかりませんでした。私はまだ小説家としてデビューする前で、無名でした。原子力に携わる友人すら一人もいませんでした。
Sさんは、事故の原因究明をせずに、責任をJCOという一企業にかぶせてしまうような報道のあり方を批判していました。しかし、元社員だったというSさんの意見を鵜呑みにしていいものかどうか悩みました。明け方まで何度もメールを交換し続け、Sさんの意見はこの事件を判断する上での情報の一つとして重要であると思い、私からの質問形式で記事をまとめて発表しました。
当時、その時の記事を読んでいらしたのが、今回、いっしょにメーリングリストを立ち上げた北村正晴先生でした。東海村での臨界事故におけるSさんとのやりとり、その後の北村先生との出会いは、私の著書である「寄る辺なき時代の希望」(春秋社)に記しているので詳しい説明は省きます。
東海村の事故から1年後に、Sさんは私にメールでこう言いました。「田口さんご自身が原子力に深入りすることはあまりにリスクが大きいように感じています。以前、田口さん宛てに送付されているメール等も拝見し、このことは実感致しました。ある程度距離をおきながら末永く見守っていただければと思います」
原子力の問題に関して発言すると、確かにかなり辛辣な言葉を投げつけてくる方たちがいらっしゃいます。でも、たいがいその方たちはご自身のプロフィールを明かさずに、匿名で意見を一方的に送りつけてきます。私は、そういう意見はとるにたらないものだと思いました。ですが、心が傷つくことは確かです。
専門外の人間が、このような科学技術の分野に首を突っ込む必要があるのか。必要はありませんでした。他に研究したり意見を述べている方がたくさんいらっしゃいます。東海村の事故以降、私とSさんの交流も個人的なものになりました。
■原発と原爆はつながらなかった
2000年8月6日に、広島テレビの依頼で広島に行き、原爆に関する取材をしました。今度は「核兵器」と向きあうことになりました。ここにも「放射性物質」「被曝」という問題がからんできます。最初のうちは、原子力の問題と、原爆の問題は、私のなかではとても遠い位置にありました。
2000年〜2004年まで継続的に広島に行って「原爆」ということを考えてきましたが、どうも自分のなかでしっくりときません。やはり遠い昔に起こった他人事……という感じがしてしまいます。自分のなかに臨場感をもったリアリティが作れません。そういう自分のジレンマを小説に描いた作品が「被曝のマリア」(文春文庫)でした。
それからも、原爆の取材は続けてきましたが、だんだんと興味が「そもそも原爆とはなにか? 核とはなにか?」ということに移ってきました。核エネルギーはどのようにして発見され、それが兵器になったのか。
核エネルギーの歴史を調べていくうちに出会ったのが「レオ・シラード」という人物でした。シラードはもともと分子生物学者だったのですが、どうやら彼はエネルギーというものに興味をもっていました。そしてあるとき《核分裂の連鎖によって巨大なエネルギーを手に入れる》というアイデアを思いつくのです。
私はシラードを題材にした小説を書きたいと考えるようになり、シラードのライフヒストリーや独自の考えを取材し始めました。その経緯は私が連載している「風の旅人」というグラビア誌に二回に渡って掲載しています。
■物理学者、レオ・シラードとの出会い
シラードは日本への原爆投下を食い止めるために、最も行動した科学者です。広島・長崎への無警告原爆投下を食い止めようと駆け回り、書名を集め、必死になって活動しましたが、彼の努力は実りませんでした。
戦後、核に関する様々な発言を行っていますが、彼は「原子力エネルギー」について、いち早く警告していました。そして、戦後すぐに原子力エネルギーに関する国際的な合意や、その扱いに関する話しあいが必要であると提言します。
「原子力の産業利用の管理システムを作らなければ、核製造物質の管理は困難。各国が平和時の原子力利用を控える合意が必要だ」
しかし、世界はすでに核の原料争いに突入していました。
シラードは世の中の人に言わせれば「かなり変人」であり、奇抜な発言や思いつきを繰り返してもいましたので、誤解も受けています。シラードに関する評価はいろいろです。でも、私のなかでは、シラードによって初めて、核兵器と原子力エネルギーがテーマとして結びついていったのでした。
「核兵器」も「原子力」も、私たちにある特殊な反応を起させる言葉だと思います。誰でもが即「危険」と感じます。それなのに、まるで必要悪でもあるかのように存在を許している部分もあります。
シラードの指摘を私流に解釈します。
「第二次世界大戦後に核エネルギーを利用した兵器も、原発も平和で豊かな世界を「担保」とすることで存在してきた」
しかし、そもそも「平和で豊かな世界」を「担保」にして、危険なものを維持するという発想は矛盾しています。矛盾していることを続けることに、そろそろ限界がきつつあるのかもしれない……と思うようになりました。もし、私たちがこの技術を使い続けるならば、別のパラダイムが必要ではないか?
■コミュニケーションを失うことの危機
北村先生は、東海村の臨界事故以降、「専門家には説明義務がある。なるべくわかりやすく、ていねいに、誠実に、技術について説明する義務がある」とお考えになり、単身でさまざまな原発に関する集会や、原発の反対運動がある地域に出向いて「一人の科学者」として「一人の人間」として、技術的な説明をし、可能な限りていねいに質問に応える、という活動を10年間、続けられてきました。
ですが、原発に関する反対派と推進派の間の亀裂は、誰もが感じているようにとても深く、しかも、複雑によじれてしまっています。長い年月の間の不信感、不満、推進派側の説明不足、対応の強引さ、地域を壊してしまう補償金の使い方など、行われてきたことの結果として、対話は不能なのではないか……と、誰しもが暗澹とした気持ちになることが多いのではないでしょうか。
そしてまた、大部分の方たちは「原子力エネルギーの平和利用に関しては、賛成でもないが、反対でもない」つまり「わからない」という立場ではないでしょうか。もし、これがなくて困るのであれば、簡単に捨てるわけにもいかない……と。ほんとうのところ、どれくらい危険なのかわからない……と。
科学技術は専門家でなければわかりません。現代にように科学が進んだ時代では専門分野は細かく分かれています。ちょっと専門を離れると、もう「わからない」ということが出てきます。
それでは、高校で物理を習った程度の私がどうして「危険かどうか」判断できるでしょうか。もし、私が判断しなければならないのであれば、私はこれから大学に行ってそれを勉強するのでしょうか。無理です。
いったいなんのための専門家なのか。北村先生はずっとその問いを発信し続けてきました。専門家と市民の間に信頼関係を築けなければ、あらゆる問題がねじれてしまいます。人間としての信頼関係を、どう築いていくのか。しかし、そんなことは大学の授業では教えません。
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/32373/1/3_016-029.pdf
2010年10月に、明治大学をお借りして隔月で「ダイアローグ研究会」を立ち上げました。「対話とはなにか?」をテーマにして、さまざまな立場や専門の違う人間が、どうしたら対話をしていくことができるのかを考えるための研究会でした。
http://runday.exblog.jp/15728929/
インターネットによる告知だけでしたが、たくさんの若い方たちが参加してくださいました。
■ゆっくりを恐れないこと。
東海村のJCOの事故から10年以上が経過して、まだ自分が「核エネルギー」という問題と関わっていることが不思議です。
今回、福島原発事故のブログの記事をすみやかにまとめることができたのは、「ダイアローグ研究会」を通じて知りあったたくさんの方々のご協力があり、時間をかけて築いてきた、北村先生との信頼関係があったからです。
もし、私が先生と面識がなければ私はどんなにその方の肩書きが素晴らしくても、このような非常時に自分の文責として内容を発表することはなかったと思います。
すべてにおいて時間がかかる。でも、時間をかけてよじれたものを、時間をかけずに元に戻すことなんて、不可能じゃないでしょうか? 時間をかけることを、惜しんではだめだ。そう痛感します。
この文章を、なにか結論をつけてまとめるつもりはありません。まだ福島原発の状況はどうなるか不確定ですし、今後、どのような事態になっていくのか、たくさんの人間がかかわり、気象などの自然の影響を受けることゆえ、誰も正確な予測などできません。わからないことだらけです。でも、考え続けていこうと思っています。
最後にレオ・シラードの言葉を添えます。
「たとえ現実的な世界が理想とする世界とズレていたとしても、長期的なビジョンを描くことは変化のプログラムのために必要である。そして、一歩ずつ実行すること」
「コミュニケーションの回路ができなければ、世界は悪循環に陥る」
レオ・シラード 1898年~1964年
ハンガリーの首都ブタペストに生まれる。東欧系ユダヤ人物理学者。核連鎖反応のアイデアを得て、原子爆弾開発のきっかけをつくった人物として知られる。シラードはナチスドイツが先に原子爆弾を保有をることを危惧し、アインシュタインを説得し、ルーズベルト大統領に核開発に関する行政措置を促す信書を送ったことで有名。だが、シラードの思惑ははずれて核開発は完全な軍主導となり、結果としてヒロシマとナガサキの民間人に対して、無警告で原爆が投下されたことに関して、シラードは激しく怒りと絶望と責任を感じた。戦後は独自のロビー活動を展開、米ソが対立する冷戦のさなかで、米ソ間のホットラインの設置に尽力、コミュニケーションの重要性を叫び、国際社会に対して軍縮を訴える政治的な発言を続けた。しかし、当時の政治状況のなかでシラードの発言や行動は、しばしば、そのユニークさゆえに困惑や嘲笑を招くこともあった。