年末・雑感(1)

11月頃からずっとイベントが続き、日本中をあちこち動き回りながら原稿を入稿し、12月になると引き継ぎやら忘年会のようなもの(久しぶりの人たちと近況報告しあう食事会)があり、学校行事や地域の行事も重なり、日々全力疾走のような状態になり、ようやくクリスマスが終って、潮が引くように生活が静かになった。まだ子供も中学生だし、私も社会的な面で仕事をしているから、世界が向う「年の瀬」に巻き込まれて翻弄される。それも、生きている……ということなんだろう。

同居している92歳のおじいちゃん、おばあちゃんの暮らしは静かなものだ。もう彼らの親兄弟もほとんど亡くなり、友人達も亡くなり、社会という公共世界からも遠くなり、年の瀬の急流からうんとはずれたところにあって、いつもと変らない生活をしている。

私も90歳を越えたら、社会というものから遠くなり、誰も私の話など聴きたいとも思わず、取り残され、静かに淡々とした毎日を送るのだろう。そもそも90歳になったときに今と同じような生活など望まないだろう。今だって体力的にしんどいのであるから、できるわけもないのだ。
 
おじいちゃんは、最近かなりぼけてきた。
ぼけてきたおじいちゃんの顔は昔よりもずっと穏やかになった。最近はあまり先のことを考えるのはおっくうらしく、その場その場のことに対応するのが精いっぱいらしい。我が家では、猫とおじいちゃんを「解脱者」と呼んでいる。うちには解脱した人が二人いる。猫のソフィとおじいちゃん。
思春期の娘の悩みは深い。なにもかも悩みになってしまう。
この両者の間に立って、半世紀を生きた私は考える。
けっきょくのところ、人間はなんで生きるのだろう……と(笑)

ゆうべは、テレビで「 JIN 仁」というドラマを観た。
タイムスリップして江戸末期に飛んでしまった脳外科医が主人公だ。彼は最新医学の知識をもって文明開化前の江戸にタイムスリップする。そして、コレラや梅毒を治したり、脳外科手術をしたいりする。

その主人公が必死で脳外科手術を施して蘇生させた女性が、あっさりと辻斬りにあって死んでしまう。どのように医学が進もうとも人間は必ず死ぬ。いつか死ぬ。絶対に死ぬ。それなのに人の命を救う意味とはなにか?
医療の現場には常に人間の「生と死」の問題が横たわっている。
主人公はタイムスリップという非日常的な体験を通して、治療とは何か?という難問と向きあわざるえなくなるのだ。

梅毒で死んでいく花魁の顔に化粧を施す。青カビから抽出したペニシリンによって顔の吹き出物が消えたという設定だ。命は救えなかった。だが、治療を受けたことで人間としての尊厳が復活する……と、あえて視聴者である私が偉そうに説明するとしたらばそういう展開か。このシーンでも終末期における医療とは?という問題が提起されており、とても面白いドラマだった。

この社会にあふれる科学の恩恵から引き離されたとき、人間一人はなんとちっぽけな存在か。そういう設定は最近よくある。先日も無人島にお笑い芸人の方たちが移住し、一ヶ月の自給自足生活を送るという番組を観た。パソコンも、携帯も、道具もなにもない世界にいきなり投げ込まれたとき、火すらおこせない……という無力感。

無力でちっぽけな自分がただ生きるために行動したときに感じる「生きているという実感」それがあまりに失われているから、私たちは繰り返し、その実感をバーチャルのなかに求めるのだろうか。

私の知人は「七年以上、同じ仕事をしない」と決めて、転職を繰り返している人がいる。七年以上続けると、惰性になるからだそうだ。ふと思い返してみて、そういえば私も七年以上同じ職場にいたことがなかった。

だが、作家になってちょうど10年になる。作家を10年続けていることは惰性なのか?なぜこれを続けていられるのか? 思えば社会保険もない自由業。仕事がなければプー太郎。明日をも知れぬ水商売。この不安定さゆえに、飽きもせずに10年が経ってしまったのだろうか……。なんにしても、作家というのは私の人生で一番長く続けている仕事だ。今年、一冊も新刊を出さなかったが、それでもいちおう作家である。不安定きわまりないゆえに、続けられているのだろうか。実に非生産的で無力である。この世の中でなんの役にも立っていない仕事だ。小説なんて読まなくても生きていける。

無人島で私はどんな事ができるだろうか。いやどれほどダメダメだろうか。まったく違う環境に身を置いて自分のダメさを見てみたいという思いは常にある。だから新しいことを始めようとしてしまう。可能性への挑戦ではなく、無力さの再確認のためだ。できることの発見ではなく、できないことと向きあった時の自分の根性のなさを知りたいと思う。

私は挫折好きだ。挫折すると安心する。挫折してようやく「更地になった」と感じる。可能性や希望をもっている時には、100パーセントの力が出ない。それは経験的に学んだ。私はそういう性格だ。挫折しきった時の「空虚さ」に初めて新しいものが立ち上がっていく。希望があるときは既成のものしか作れない。挫折するためには力いっぱい立ち上がらなければならず、その力いっぱい立ち上がる筋力が、最近、低下した(笑)いやはや、挫折もしなくなったということは、傷つかなくなったということだ。こうして人は年をとる。

筋力が弱って、立ち上がらなくなると挫折もしなくなる。それは楽である。人は適応力に優れているから、挫折しなくなれば、楽な環境に流れていく。立ち上がらず、挫折せず、ぬくぬくと自意識のごきげんをとって、自分の無力さを忘れていく。

そうなると保身に走る。できれば「まずいものは見ないでおきたい」「臭いものには蓋をする」これを意識的にしている人はすごい。たいがいの人は無自覚にやっている。無自覚だから悪気はない。悪気のない人はほんとうの怖い。この世で一番おそろしいのは悪気のない人だ。意識して「私は臭いものに蓋をする主義」という人は、臭い者に蓋をしていることを自覚してやっている。それは安全弁があるということだ。無自覚で悪気のない人は「臭いものに蓋をしている」という事実を正当化して隠ぺいする。この正当化の過程で必ず自分以外の他者を悪者にする。正当化とは他に悪い者がいるという主張に他ならない。この行為には安全弁がない。正義には安全弁がない。

「我が校にはいじめはなかった」と記者会見する教育者には、この無自覚で悪気のない自己正当化が見てとれる。これは誰もが落ちる穴だ。この落とし穴に落ちない人はいないくらいだ。「見たくないものは見ない」というのはあたりまえな心のありようで、それが悪いのではなく、そのあたりまえのことをまた「悪い」として隠ぺいする、人間理解の浅さが形成しているなんらかの雰囲気を打開できないことが問題なんだろう。

いま、二十世紀的価値観の最後の揺り戻しのようなことが起こっている。科学は人間の無意識に光を当てたが、けっきょくその無意識は脳機能や、コーチングや、プロファイリングといった「人間の脳を機械のように分析しコントロールできる」という考え方によってかなり歪められ、わかったことにされつつあるのだ。でも、これは二十世紀の断末魔。最後のあがきだ。それもたぶん、もうそろそろ時代遅れになる。
限界の時代。可能性ではなく限界を見る時代。可能性という幻想を捨てる時代。限界という共通認識は限界の向こうの具体的な創出でもある。
 
by flammableskirt | 2010-12-28 13:33

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