とるにたらない私について考える
2010年 11月 22日
今週末に朝日カルチャーセンターの「死生学」の連続講座の一つを担当することになっている。そのお題に「スピリチュアル」という言葉を冠しているので、自分なりの考えをまとめようと、いつも頭の隅にこの言葉を置いているのだ。
つい先日、気功の合宿をした時もその話題が出た。
このあいだ、あるシンポジウムにゲストとして呼ばれて講演をしたのだけれども、そこに聴衆として来ていた何人かの知人が「あの会のスピリチュアルなムードはちょっと……」と言葉を濁すのである。
それで、どう「乗れないのか」について詳しく質問してみた。
「そうですねえ、なんというか、みんな一緒にハッピーに……みたいな、ハートフルな感じが苦手というか……」
「もう、すごい笑顔で語りかけられてひいちゃいました」
「いきなり知らない人と手をつなぐとか、なんかやっぱり抵抗があるし……」
そういう「なんとなくダメ」という意見をさらに突っ込んで聞いていったとき、ある方がとても面白い意見を言ってくれた。
「つまり、あんなにハッピーで、みんなと仲良くできて、こうすればほら、霊的によくなるでしょう……と言われると、なんだかそれが出来ない自分はダメだな、みたいな気持ちになっちゃうんですよね。ようするに、こっちの気持ちの問題なんだろうけど。私はああいう風にはできないんですよ。やなんですけど、そうしたほうがきっと平和なんだろうってことはわかる。だけど、なんだか違うような気もする。躊躇しているんだけど、躊躇している自分はダメな人……っていう、そういう雰囲気があって、自分を否定されている感じがしちゃうんで、引いてしまうのだと思う」
「なるほど、そして、ダメなんですと表明すると、逆に同情されちゃう感じ?」
「そうそう。ああ、まだ霊的な成長の途中なのね、みたいなこと言われそうで(笑)なんか、ちょっと、カチンとくるし、その反面、カチンときている自分もダサいなと思うし……。とにかく疲れちゃうんですよね」
この感じはすごくよくわかるのだ。
私も乗れないほうだ。ノリがいいように思われがちだけれども、実はノリはすごく悪い。
ちなみに私は、ライブなどで総立ちになって手を叩くのも苦手。サッカーの試合の応援も苦手。ウェーブとか、ほんとやりたくないのである。
お祭りも苦手である。情熱的なことにノレないのである。
そして、若い頃はノレない自分にコンプレックスをもっていて、わざとノリがいいふりをしていたところがある。ああいう場所でノレない自分は、心が解放されていない閉鎖的で、素直じゃない人間のような気がしてしょうがなかった。それゆえ、ノリノリの人を見ると「すごいな〜、自由なんだなあ、気持ちよさそうだなあ」と、そう思い、うらやましかった。で、ノレない自分は格好悪いと思いっていたので、過剰にがんばってノリノリのフリをして、ぐったり疲れているのだが、周りからは「ノリがいいわね〜」と言われたりしていた。
でも、心のどこかで冷めているので、なんだか後味が悪いのであった。
だんだん年をとって、五〇にもなろうという今になって、冷めながらノリノリという、難しい技ができるようになってきた。どこかで冷めつつも、それなりに愉快にやれる。というのは、自分というものを否定しなくなったからだと思う。冷めている自分を好きになったので、逆にノレるようになったのである。不思議なものだ。自分のダメ出しをしなくなれば、どうでもよくなることが多いということに気がついた。
たとえば、みんなで「イマジン」を歌って平和を祈るとか、みんなで手を繋いで死んだふりをするとか、みんなで心を開いて抱きあうとか、やっぱり苦手である。みんなと私はなかなか一つになれない。なにかとても居心地の悪さを感じて、そういう場で「平和すら祈れない私はダメなんじゃないか」と思ったことが数限りなくあった。
以前にアイヌのアシリ・レラさんと旅をしたとき、他の人たちはレラさんといっしょにアイヌのカムイノミに参加して祈ることができるのだが、私はだんだんそれができなくなってしまった。私はアイヌではない。その私が、アイヌのはちまきをして、アイヌのように祈ることがとても偽善的に感じて、なんだか違うような気がして、自分だけ列から外れるようになった。そいう時、とても自分に否定的になり、自分はダメなんじゃないか。祈ることもできない自分の心はとても狭くて、頑なで、意地悪なんじゃないかと感じていたのだ。
そういう時に、アイヌの精神世界を研究している藤村久和先生にお会いして自分の気持ちを打ち明けたのである。すると、藤村先生はとても強く「それでいいのです」と言ってくれた。「祈りというのは、自分の言葉でするものです。あなたにはあなたの言葉がある。他人の言葉を真似する必要はない。自分で祈りの言葉を見つけなさい。それが祈りなんだよ」と教えてくれた。
まったく同じことを、メキシコのシャーマンからも言われた。
「あなたの祈りがある。それでいいんだ」と。
私の祈りとはなんだろう……。自分の祈りがわからなくて、それを探しているような十年間だった。祈れない……というのは、ほんとうに私にとって凄まじいコンプレックスだった。でも、いろんな場所を旅しているうちに、ようやく最近になって「祈る」ということにあまりこだわりをもたなくなった。知らないうちに自分がやっていること、あまり考えたり意識せずに出てくる言葉、行為を自分が受け入れるようになたのかもしれない。
だからって、それを人と共有したいとか、強要したいとも思わない。私の祈りは私のものであり、真似されることはくすぐったいし、誰かといっしょにやると、なんだかもう違うものになってしまうからだ。しかもその場限りのもので、毎日のもので、すぐ忘れてしまうものでもあり、そんな大げさなことでもないように思えてきた。
花を飾ったり、お茶をいれたり、掃除をしたり、洗濯ものをたたんだりするのと似たような行為にすら感じるのだった。
スピリチュアルにこだわりすぎると、たぶん、その時点でもうなにかを他人に強要してしまうことになっているのかもしれない。こだわりを自分の裡におさめることができるのは、自分をよしとしている時であって、自分がこれでいいと思えない間はこだわりは自分から漏れだして他人を侵食しようとする。他人の承認がないと不安だからだろう。誰しも不安であるのだけれど、その私が私であることの不安をふと外してくれるのが、実は祈りの本質であるように思える。無為の行為であり、無為ということはつまり、とてもとるに足らないことであるのだ。かけがえがないけれどとるに足らないという、二律背反している私という中から、日々の行為が生み出されている。
世の中は「あなたは唯一無二のかけがえのない存在」ということをあまりに強調しすぎているかもしれない。それはそうなのだが、かけがえがないほうばかりを大切にすると、なぜか祈りというものから遠くなることに気がついた。
とるにたらない自分であることの肯定こそが、祈りと契りあっている。
あまりにも「霊的なかけがえのないこと」に重きを置き、かけがえのない存在として自分や他者を尊重しすぎることは、たぶん、バランスが悪いのだろう。
そんなに幸せでなくても、そんなによい人でなくても、とるにたらない存在であっても、それはそれでいいではないか……。下世話で、あくどくて、混とんとして、みみっちいこの世界でもそれはそれでいいではないか……。こんな自分でもいいではないか……と、思えないと、祈りは厳しい。自分を越えた高尚さの先にある愛や平和は、しょせんきれいごとだからだ。
場の力は、弱さというフラジャイルなものを根拠に立ち上がる場合が多いように思う。
弱いこと、とまどい、躊躇そういうものを共感しあうとき、不思議な場が形成され、そこに夢かもしれない愛や平和の幻影が、ふわっと立ち上がって、すぐ消える。
逆に、愛や平和を謳い、みんなが一つだ!と叫べば叫ぶほど、場は熱狂的ではあるが排除的な雰囲気を帯びる。これは、とても難しい。いちがいには言えない。ようやく体験的に私が習得してきたことだが、ノウハウを説明もできないし、エビデンスもとれない。
どう説明したらいいのかまだよくわからないが、土曜日までにもう少し、考えてみようと思っています。