比佐子さんのこと

 黒岩比佐子さんが亡くなった。
 彼女とは二十代の前半に、同じ会社で机を並べていた間柄だ。私はその会社には一年半程度しか在籍していなくて、すぐに辞めて独立してしまった。だから、彼女とはそれ以降、あまり会う機会もなく、またたくまに三〇年近い時間が流れてしまった。それでも、若くていちばん貧乏していた時代の友人というのは、不思議なもので何年も会わなくてもすぐに気持ちが通じ合う。なにしろあの頃、私は貧乏だった。そして、比佐子さんもだ。
 今年の一月に、私の仕事部屋を訪ねてくれた時、彼女はもうガンの闘病生活に入っていた。私はガンの父を看取ったノンフィクションと、ガンそのものを題材にした医療小説を書いていたので、長期でガン治療の取材をしている。それなりにいろんなことを知ってはいたが、こういう場合、そんな知識はあまり役には立たない。比佐子さんはまだとても元気だった。そして自分の治療方法は自分で探していた。
 抗がん剤治療を受けながら、彼女は二冊の本を出版した。その、粘り強さ、がまん強さ、根気、根性は、彼女が二十代の頃からまったく変っていない。私は彼女を心の中で「ブルドーザー」と呼んでいた。そして、自分にはない、芯の強さをもった人間として尊敬していたし、同時に、自分が彼女に比べてあまりにあやふやで、根性なしで、いいかげんで、飽きっぽいことに恥じ、彼女の地道さを羨んでもいた。およそ、比佐子さんは私と対極にある人だった。私はそう思っていた。
 今年、念願の「パンとペン」(講談社)を出版して、彼女はとうとう力尽きたように入院した。そしてほどなく聖路加病院の緩和ケア病棟に転院した。私が最後に彼女と会ったのは、昨日の午後だ。彼女は穏やかだった。二人で仕事をしていた頃の思いで話が弾んだ。比佐子さんと私は最初の本の出版時期も近い。比佐子さんは、誰もが見落としてしまうようなテーマを選んで、こつこつと地道に資料を集め、膨大な本に埋もれて作品を生み出してきた。それは私が逆立ちしてもできない芸当で、やはり彼女のあの集中力、資料を読み込む根気強さ、地道さ、事実を追い求める誠実さに、私は劣等感をもってしまう。彼女の仕事を見るたびに、自分の曖昧さや、飽きっぽさをいつも反省させられる。そういう意味で、彼女は私の「師」だったとも言える。
 私たちの共通点は、とにかく二人とも書くことが大好きだったこと。書いていれば幸せだったこと。だから、いっしょに勤めていた頃は、二人で社内報を作り、手書きコピーで配っていた。「あの社内新聞をとっておけば記念になったねえ!」昨日はそんな話をしたのだった。
 私が帰ろうとすると、彼女は空中を泳ぐように手をさしだした。とても細い腕がこちらに伸びてきた。私はその手を握って「また遊びに来るね」と言ったけれど、なんだか、急に彼女が小さな女の子のように感じて、額に頬をすりすりした。あったかかった。その温もりを今も覚えている。
 今日、昼過ぎに訃報を受けたときは、正直、動転した。
 昨日会ったばかりだったから、まさかこんなに早く……と。
 病室に飾ったクリスマスツリー、たった一日だけの、クリスマスツリー。
 比佐子さんは、全身全霊で本を書いた。その情熱を私は最後に彼女から譲られたように思う。これからきっと、事あるごとに彼女を思い出す。諦めそうになるとき、根気を失うとき、もういいか……と思うとき、きっと彼女が心のなかで「まだまだよ……」と言うのだ。それがわかる。
 彼女は百年先まで読み継がれる本を10冊残した。
 凄い書き手だった。久しぶりに現われた正統的評伝作家。ノンフィクションの新鋭。ほんとうに残念だよ。
 だけど、比佐子さんは私に大切なものを残してくれた。とても、温かく、そして私が生きるうえで必要なものを惜しげもなく残してくれた。ありがとう、と伝えたい。
 私はもっとまともな作家にならなければなるまい。
by flammableskirt | 2010-11-17 17:25

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