11月27日 新宿朝日カルチャーセンター「スピリチュアルブームと死生観」

「スピリチュアルブームと死生観」というテーマで11月27日に新宿の朝日カルチャーセンターで講義をする。
 なぜこのテーマにしたかというと、一つにはスピリチュアルというものが嫌いだからだ。私のことをスピリチュアル好きの作家だと思っていたら大間違いである。冗談ではない。私をよく知る人は絶対にそんなことを言わない。以前にも私の文庫に「スピリチュアルなエッセイ」という帯を書いた編集者と「冗談じゃない!」と大げんかをしたことがある。だが、その本は出てしまったので、きっとそれを買った人は「あースピリチュアルなんだな」と思ったろうし、実際に帯にそう書いてあるんだから思って当然であろう。すべて私の不注意のいたすところで面目もない。
 なぜ、スピリチュアルが嫌いなのかははっきりしている。あのスピリチュアル的な文章がきらいなのである。どういうのかというと、例えば……。

「もしあなたが生きる意味というものについて考えているのだとしたら、それはあなたの魂がまさに成長の時間を迎えているからです。あなたの心を研ぎ澄ましそしてインスピレーションが訪れるのを待ちましょう。あなたの準備はもう整っています。そして、あなたがサムシンググレートと繋がる時はすぐそこまで来ています。あなたにとってこの成長は時には苦しいものかもしれません。でも天使たちがあなたを守護しています。心配することはありません。もし傷ついたとしても、それは必ず癒されます」

 ……みたいな文章が嫌いなのである。これはいま私が即興で作った。私のオリジナルな文章であるが、だいたいこういう調子、こういうリズムで書かれている本は、ぞっとする。この文章の特徴は「上から目線」と「おせっかい」と「他者コントロール」である。まず、この語り手はすごく上から目線なのである。なにもかもわかっちゃってるわよ、というスタンスである。なにをわかってんだか知らないが、わかっちゃってることが大事なのだ。この世の真実の姿、世界のありようを、とにかくわかったことにして話は進む。
 そして「おせっかい」なのである。「あなたは成長の時を迎えている」と断言し、それを教えてくれちゃっているのである。しかし、もしほんとうにそうなら他人から言われなくたって勝手に成長するし、できれば自力で成長したいものだ。見も知らぬ他者が横からやいやい言うなと私は思う。そして、さらに「だからこうしなさい。こうなったらああしなさい。そうすれば……する」と、優しいふりをして徹底的に相手をコントロールしようという意図がみえみえの語りかけをするのである。
 どうしてこんなに露骨なのか。読者はそれに対してなんの違和感ももたないのだろうか。あるいはコントロールされることに慣れてしまっているのかな?とも思う。
 そしてもちだされるのは必ず愛であり、愛こそすべてである。憎しみとか怒りというネガティブな感情はものすごく低く扱われる。しかし、愛ってなんだよと思う。私は愛を知らないバカ者だ。よって愛という言葉を出されるとそれだけで「すみません」と思う。私が身近に慣れ親しんでる感情は「怒り」であり「諦め」であり「哀しみ」である。なにしろ50を過ぎるとやたらと知りあいが死んでいくのでね……。病気になる人も多い。時として愛はそのようなさまざまな感情の通低音として私が認知できない周波数でもって鳴っているのかもしれないと思う。だが、私はそれを意識できない。愛を意識化できないのである。だから俗に呼ばれる愛に近いような感情体験をするのは決まって夢の中であり、夢から覚めると忘れてしまうのである。また、メキシコで幻覚キノコのセッションを受けたときに、ただもうひたひたと降り注ぎ染みとおるようなききしにまさる慈愛が押し寄せてきてぼーろぼーろと泣き続けたのであるが、それもシラフに戻るともう意識化できないのである。私は愛という感情はある種のかなりディープな変成意識状態でしか体験できない。なので、愛は私のごとき凡人にはよほどのことがない限り、体験できないものだし、それでいいのかもしれないと思っている。そして、なぜか知らないが、あの時の感情を愛と呼ぶことに抵抗がある。愛では……陳腐すぎるのだ。そんな単純に言語化してしまったらもう違うよ!!!!!と地団駄を踏む私がいる。それゆえ「愛」を連発されると、萎えるのである。
 しかるに「愛がわからない」などと言うと、さらに上から目線で「あなたはまだ心を完全に解き放たれていないのです。他者を許し自分を許しで大いなる宇宙にすべてをゆだねれば愛はあなたに入ってきます」みたいな上から目線のさらに上から目線の気色悪いことを言うのがスピリチュアルであり、ほんとうにムカつくのである。てめえ、何様だよ!
 するとさらに相手はにっこり笑って「あなたはまだ怒りの感情に……」と言い出し、永遠にきりがないのである。対話不能となるのである(笑)
 まあ、ここまで読んできてきっと多くの人は「なんだ、ようするにこの人は、スピリチュアルの本質ではなくスピリチュアルなものの表現方法に文句をつけているだけじゃないの」と思われたろう。その通りです。中味ではなくパッケージに文句を言っているのである。
「パッケージなんかどうでもよくて、本質が素晴らしければそれでいい」という賢明な方は、ここまで読んできて腹立たしいでしょう。すみません。正直なところ私はスピリチュアルの本質はわからない。自分が体験したことがないのでわからない。守護霊どころか、自分の死んだ親やきょうだいの霊にだってお会いしたことがない。
「でも、田口さんはこのあいだ、トランスパーソナル学会でスピリチュアルにつてシンポジウムに出ていたし……、そういう発言するじゃないですか」
 と突っ込まれるのだが、そうです。あの学会のテーマだって内心「ちょっとやだなー変えようよ……」と言ったのだが、理事会にも出席しないし発言力なきがゆえにガマンした。
 私は原爆というものの取材を始めて「平和」という言葉がほんとうにうさんくさいと思い、平和アレルギーになり、平和という言葉を自分が再び使えるようになるまでに10年もかかった。平和を唱える人間は絶対に自分の正しさに自信がある。だから平和を叫べる。自分の正しさに自信などない私は平和と叫んだだけで、自分が正しいことを主張しているような気分になり、平和という言葉が使えなくなった。だが、10年経ってしみじみと「平和ってのはいいもんじゃないか」という気持ちになれてきたので、ようやく「平和」呪縛から解放されたのである。たぶん時の流れのなかで私の何かが変容したのだ。善悪という対立的な発想からの脱却の証なのか、自分ではよくわからない。だがこの言葉を使う時はものすごく用心する。取り扱い注意の言葉として私の中では相当難易度が高い。スピリチュアルも、愛も、そういう言葉なのだ。私のなかの難易度が高い。スピリチュアルは特にアレルギー、つまり自己免疫疾患状態なのである。これらの言葉は私自身を攻撃する。私の在り方、生き方、ものの考え方、他者との関わり方も含めて、心身に過剰反応を起す。それをもう一度自分のものとして取り込んで攻撃しなくなるまでに、あと何年が必要なのかわからないが、いまはダメである。諦めと達観に至るには相当の時間を要しそうだ。それなのに、宇宙の愛に目覚めてわかちゃってる余裕のあるスピリチュアルの人は、そういう私を優しげな声でなぐさめたり、癒したりしてくれようとする、それが、ますますじん麻疹になるのである。オマエら何をわかったんだか知らないが、気持ち悪いんだよ、と私は叫ぶのである。ほっといてくれ!
 まあ、そういう、スピリチュアルが苦手な私です……というところから、始まって、エリザベス・キューブラー・ロスの話などを突っ込んでできたらいいかなあ……と思っています。
by flammableskirt | 2010-10-25 07:27

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