『蟲』との折り合い

8月が終る。そして、明日から9月が始まる。

7月から朝型の生活に変えて、早朝に仕事場で仕事をするようになった。およそ2ヶ月、出張の時も含めて朝は5時〜6時の間に起きるようになった。どうしても前夜に夜の遅い用事、たいがい人と会ってご飯を食べる……ということなのだが、それがあるとやはり5時はきつい。そういう時は昼寝をはさむ。夏バテしないように気をつけていたが、とうとう8月の終りにじん麻疹になった。

体調はすこぶる良かった。ただ、寝不足が重なっていた。自分一人で生きているわけではない以上、いつも同じペースで生きるわけにはいかない。その点、早朝5時というのは誰も私の都合を乱さないので、ほんとうに集中できる。人が目覚め、動き出せば、その人たちと共に生きる時間が始まる。子供たちを夜、映画を観に行ったり、夏祭りや、納涼会、夏はいろいろイベントがあるのだ。

しだいに、朝、一人きりになる時間がものすごくいとおしく、大事な時間になってきた。それで、朝になるのを待ち切れないように起きて仕事場に行くようになった。あまりにも人間関係が多過ぎるのかもしれない、と思うようになった。

「年をとったら、人生で必要ないものをどんどん削っていかなきゃならないのよ。だって、もう老い先短いんだから、いろんなものに関わっている暇はないのよ」と、年長の友人が言った。
なんだか不思議な気分だ。私は、ずっと、増やせ増やせの足し算人生だった。たくさんの人と出会い、たくさんのことをしたかった。だが、それも30代の半ばにはピークに達していて、40代にはもう無理がきていたのだが、それに気づかずにイケイケでやってきたことの疲労が40代の後半に出ていたようだ。

どうも、物事の「いい加減」というのがよくわからない。子供の頃からそうだった。いつもハメをはずして怒られていた。頃合いというのが理解できない。それでずいぶん出る杭として叩かれて、痛い目を見てきたのだが、それでもまだわからない。昔よりはわかる。身をもって知ることのすばらしさ。人間はちゃんと臆病になる。だが、それでも生まれついての性格というのは治らないものだ。

集中できるようになると、またもや集中しすぎてやりすぎる。楽しいのである。集中というのはほんとうにすてきなことなのだ。なにをやっても集中できればこんな楽しいことはない。広告の差し込みだって、皿洗いだって、山菜のあく抜きだって、なんだって集中してやることは楽しいのだ。もちろん執筆もそうだ。集中できたら、こんな幸せなことはない。なので、やりすぎる。やりすぎればなんでもストレスになる。

じん麻疹が出て、かかりつけの皮膚科の医院に行った。先生はもう80歳に近い漢方の処方をする女医さんで、このあたりでは「怖い名医」として有名な人だ。「あなた、ストレスそうとうきてるわよ。そんなに仕事しなくてもいいじゃない」
いや、そう思って、今年前半は仕事を休んで好き勝手なことをしていたのである。それなのに7月から執筆を再開したら、集中できることが楽しくてついやりすぎてしまったようだ。
「こんなふうに頭ばっかり使ってるとね、そのうち、アイデアが湧かなくなるのよ。わかる? 人間の脳がね、老化しちゃうのよ。けっきょく同じことばっかり繰り返すようになるの。そうなったら、もうおしまいよ。新しい発想が出て来なくなるの」
先生は真顔で怖いことを言う。
「長く続けようと思ったら、細く長くよ。いいわね。たくさんやっちゃだめ。小出しにするのよ。若くないんだから。若いうちはいいわよ、どんなに仕事したって、いくらでも頭が働く。でも、年をとったら違うのよ。あなたはまだまだいい仕事ができる。だから、力を小出しにするのよ」
こう言う話を、かつては馬の耳に念仏で聞いていたのだが、今やあまりにも身に覚えがあるゆえ素直にうんうん頷いてしまった。
じん麻疹はシグナルであるという。ということは、私の体の感受性はまだまだ捨てたもんでもないということか。シグナルが出るうちは大丈夫なのだ。それを無視したら、いよいよ取り返しのつかないことになる。

2週間分の漢方薬をもらって、帰って来た。なにの漢方かと思ったら「更年期障害」によく処方される「冷え性」の漢方が出ていた。それを温かいお湯で煎じて飲むとなんだか心底ほっとした。どういうわけかその晩、最もひどくじん麻疹が出た。顔にまで出た。大変なことになったと思ったが、熱が出て疲れて寝てしまうと、翌朝にはなんだかひどくすっきりしていた。腫れもきれいに引いてしまい、ずっと体内にくすぶっていた、あのうずうずした妙な寒気も消えてしまった。

妙な病気だなと思う。昔の人たちは、こういう奇妙な症状を「蟲」のせいにしたんだろう。私もこれが病気とは思えない。なにか「蟲」がいたような気がしてしまう。

まったく話は別なのだが、最近「ホメオパシー」というものが社会的に批判にさらされているようだ。私は服用はしていないが、以前にイギリスからやって来たというホメオパシーの名医という先生にカウンセリングを受けたことがある。友人の紹介で無料で受けられるということだったので、お願いした。特にここが悪いというところはなかったのだが、慢性的な倦怠感と不眠に悩んでいた頃だった。一時間も問診を受けて、出されたのは「不安や心配事で眠れない」という人に出されるレメディだった。それを飲んで、良かったか悪かったか、よくわからない。症状事態がいい加減なものだったし……。それ以降、ホメオパシーに関わらなかったのは、単にカウンセリング料がすごく高かったからだ。

でも印象に残ったのは、非常の細かく不思議な問診をする、ということだった。例えば「寝るとき右を下にすることが多いか、左を下にすることが多いか」とか「コーヒーは好きか、嫌いか」とか、あまり病気と関係ないような質問をたくさん受ける。その上で、私の抱える根本的な肉体あるいは精神の問題を探り当てようとする。私自身は、この一時間近い細かい問診が一番おもしろかった。つまり、あまりに細かく質問されるので、ふだん気がつかない自分の生活について意識が向くのだ。その時、気がついたのは、私が眠れないのは私が「他人の期待を裏切るかもしれない」という不安を抱えているから、ということ。実は私は他人の期待に添おうと非常に気を使うタイプである。それは、私がアルコール依存症で暴力的な父親の家庭に育ったことと無縁ではない。いざこざの多い家のなかで、なんとか他人の顔色を窺い、早く相手の期待を読み取り、それに従う行動をして場を丸くおさめようという、妙な気配りを幼児の頃から身に付けていた。それは、家族のムードメーカーとしての私の役割だった。

甘くて小さな砂糖粒が、私の不眠を解消することはなかったが、私自身の気づきになったように思う。

病気というものは、ほんとうに訳がわからない。じん麻疹になって近所の総合病院を受診すれば、まずされるのが点滴。そして、抗ヒスタミン剤を出される。それで、たいがい症状はおさまるのだ。でも、それでは私の『蟲』がおさまらない。私はそのことを知っている。長く生きているので、病気というものが薬で治るとは思っていない。病気というものの根本にあるものは、私なのである。まさに『私』の顕現である。その、都合の悪い私と折り合いをつけるために、間に存在するのが医者だとしたら……。

私は他人の期待に応えたい。なにかにつけて私が自分を省みずに無鉄砲になるのは、その『私』のせいである。それも『私』であるから、行動パターンを改善して、精神的肉体的なホメオスタシスを取り戻すには、私と対峙しなければならないのである。西洋医療はその手助けはしてくれない。それができるのは、ある種、シャーマン的な素養をもった治療者であるが、そういう人はまれである。

聞くところによれば、ホメオパシーも、多くの人は西洋医療の薬替わりに使っているようだ。西洋医療の薬とは用途が違うのだから、そのように使って効果があるわけがないだろうと思うが、もともと、治るということの意味を取り違えているわけだから、どうしようもない。ホメオパシーをありがたがって万能薬のように使う人は、そもそも大きな誤解をしているのかもしれないと思う。レメディは薬ではない。『蟲』との折り合いをつけるために選ばれた方便であり、その使用にはまず、自分の症状の原因に気づくというていねいなカウンセリングが前提になっているはずである。

病気というのは、ほんとうにありがたいもので、症状について深く考察すれば必ず自分にとって得ることがある。だってそれは、私の分身であるのだから。そのことを知り、共に症状に向き合ってくれる医師は人生の強い味方だ。そのような治療者なくして取り扱えないのが、東洋医療の漢方である。そしてまた、ホメオパシーも似たようなものではないかと思うのだが、確信はない。
by flammableskirt | 2010-08-31 12:41

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