いのちに関するメモ 1
2010年 05月 20日
今日は20代30代の若い自殺者が急増しており、失業が大きな要因になっていて「生きる意味がわからない」と言う若者が多いという記事を読んだ。
ある人が「病気にかかった豚を処理するとの、健康な豚が成長して私たちの食肉用に処理されるのとでは死の意味が全く違う。そのことを一緒にしてベジタリアンを標榜する人たちが、殺すのはひどいこと、だから食べるべきではない。と言う理屈を言うのは考え方が浅過ぎる」と言っていた。
以前に私が広島の原爆について書いたときに、ある青年から「人間はどうせ死ぬのだから、病気で死のうと、自殺で死のうと、原爆で死のうと、死ぬのにかわりはないじゃないですか」という趣旨のことを言われ、その答えとして「生きる意味を教えてください」(バジリコ)という対談集を作り、10人の識者の方たちと対談をした。
これから感染拡大を食い止めるためには、発症していない豚の殺処理も始まる。二十万頭の殺処理。感染拡大を防ぐためにはしかたない。
アカペラの練習に行くために歩いていたら、「原水爆禁止国民平和大行進神奈川実行委員会」という人たちがデモ行進していた。これから広島まで歩くのだそうだ。「広島では二十数万人が一瞬にして犠牲になりました」と拡声器で呼びかけながら、町を歩いていく……。その様子を横目に見ながら、練習場所の教会に向かった。
友人の子どもがテレビを観て「どうして殺すために生かしている豚を殺して、悲しいの?」つまり、この子は、では食肉用として殺すときは悲しくないのか?と聞きたかったのである。子どもの素朴な疑問だったと思う。でも、豚を育てたことも、殺したこともない、ただ食べるだけの私には答えられなかった。
「畜産業に携わる人の気持ちは一般の人はわからない、みんな出荷までのあいだ、家族のように大切に牛や豚を育てているんだよ。その牛や馬を殺すことの辛さ、苦しさはとうていわからないよ」と、牧場で働いたことがある青年に言われた。「でも、出荷したら食肉処理されるわけだよね?」とおずおず聞くと「食べてもらうために生まれてきた。人間にたべてもらうことで命をまっとうするんだ」と言われた。私もいつも豚や牛を食べている。でも……、どこか納得できない自分がいた。
大学でアイヌの精神文化について話をしたとき、多くの人から「なぜ熊送り(イヨマンテ)の儀式では、熊を殺して食すのか?」と問われた。「それは、アイヌの人たちが熊をほんとうに大切に思っているからです。だから、子グマのときから育てて、そしてみんなで矢と放って殺し、神として敬いたくさんのおみやげをもたせて、神の国にお返しするんです。そうすれば、神の国で『人間にこんなに大切にされた』と他の熊の神たちに話してくれる。そうするとまた人間のところに来てくれる。そう信じているからです」と説明したが、学生には納得してもらえない。ある女学生から「そんなのは人間の傲慢じゃないですか?」と言われた。
私はアイヌの精神文化には肩入れしているところがあるので、アイヌの熊送りのメンタリティを理解できてしまう。それに対して「理解できない」と言われることのほうが多い。
品川の食肉処理場を取材したときは、狂牛病の問題が起っていた頃だ。食肉処理場の責任者の方がこう言った。「私たちはね、牛のどんな部分もすべて使ってきたのです。捨てるところは一切なく、すべてを役立ててきた。それが誇りだったのに、狂牛病の問題が起ってから、一部を捨てなくてはならなくなった。それがほんとうに無念でならない……」
食肉……には、生産する人たちから処理加工に至る人たちまで、なにか一つ貫かれた生命観があるんだと思った。
いのちのリアリティは、それぞれの職業、生き方、民族、国、思想、宗教によって違うんだ。そうあらためて思う。なにが正しい、なにが間違っているということは……言えない。
だから他人の考え方を「浅はかだ」と言う考えも浅はかなのだろう。
豚は色も見えるし、社会性をもった生き物で、感情もある。かなり人間に近く、知能は二歳児程度らしい。目は眼科医の手術の実験台として使用されるし、お尻の皮膚は化粧品の肌テストに使われている。それだけ人間の皮膚と近いのだ。人間が関与しなければ、母親を中心とした母系の集団を作るそうだ。他の生き物に対する好奇心が強く、犬や、鶏、猫などとも共生する。もちろん人間に対しても、特別と言ってもよいくらいの親愛の情を示すらしい。
殺処分された家畜の慰霊、他の国はどうしているのだろう。
そういえば鶏インフルエンザで処分された鶏は慰霊されたのかな。
いろんな思いがぐちゃぐちゃになってなんだかわからない。
メモ、続く。