家畜の死
2010年 05月 18日
家畜の伝染病、口蹄疫の被害の大きさにぼう然としている。
被害拡大の原因については、ジャーナリストの方々が書いているし、部外者の私はこの件に関してネットや新聞・テレビメディア以上の情報源をもたず、また現地取材をしたわけでもないから見聞したことすら書けない。
ただ、今朝、この記事を読んで現場の人たちや畜産農家の方々の苦悩を思い言葉もない。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100517/214459/?P=6
この口蹄疫という伝染病は人間に感染しても、それによって人間が死ぬことはないという。もちろんウィルスはどんどん変異するので将来的にも人間にとって安心かどうかはわからないが、いまのところは人間に感染しても治療する必要もなく自然に症状がなくなるそうだ。ただ、人間が感染ルートになる。人間だけでなく、犬、猫、鳥、風に運ばれて……と感染ルートはあまりに多様なため、一度被害が拡大すると感染を止めることが困難になる。早期発見が最も重要で最大の対策だ。そして、一度感染を確認された家畜はすみやかに殺傷処分にするということが、世界的なルールであり対策である。
現状で、8万頭以上の(8万頭!)の牛豚が処分されており、その数に驚愕したのだが、他国でも被害が拡大した場合は、アメリカで約10万頭、イギリスで約44万頭と、すさまじい数の家畜が殺傷処分され、また台湾では1997年に約380万頭の豚が殺されたという。この年は自分の子どもが産まれた年で、産後でほとんど家にいたのだがこのニュースを知らなかった。というのは全く別のニュースが世間を騒がせていたからだ。あの「酒鬼薔薇聖斗」の事件であり、テレビはこの事件の報道が延々と続き、乳飲み子を抱えた私もそれを延々と見続けていた。
台湾で感染症にかかった豚380万頭が殺されるよりも、一人の少年が殺されて首を切断されたことのほうがもちろんショックなのである。そして、この二つの事件を「価値」という名のものに天秤にかけることなどできない……。そもそも豚は家畜である。ただ、人間が食べるために飼育し、成長した後は出荷され食肉処理されるのである。
14歳の少年が、近所に住んでいる顔見知りの少年を殺し、その首を切断した。そして顔に切り傷をつけて自分の通う中学校の校門の前に置いた。この事件を知った時に感じた激しい衝撃、なにか足元から地面が崩れていくような不安。時間が経ってもそれを忘れない自分がいる。事件の年に生まれた子どもが中学生になり、来年14歳になる。親としてあの事件をいまだに心のどこかで引きずっているのだと思う。べたべたした血がまとわりつくような感じ。私の内部では今もなにも事件について納得されていないのだ。
あの少年Aの事件と同じ頃に、海の向こうの台湾では380万頭の豚が殺され埋められていた。
それがどうした、それがなんだと言われても、私はなにも答えられない。
ただ、二つの出来事を並べて、ぼんやりと見ているだけだ。
そして今回、沖縄の普天間基地移設問題がテレビニュースの報道の多くを占めており、その最中に九州では豚牛およそ8万頭が殺傷処分となっている。
だからなんだ、その二つがどう結びつくのだ……という話ではないのだ。
14年前の出来事と同じように、また、この二つの事柄をぼんやりと並べて見ているだけだ。
どうにもわからないことがある。なぜか同じ時期に起きた二つの出来事につながりを感じる。どうつながっているのか説明もできないのだが、なにかが似ているような、関係しているような気がしてしまう。どこがどうというのではないのだ。地底深く深く深くのどこかで暗黒水脈が通じているような気がして、それを感じるためにあえて思考しないのだ。ただ、ぼんやりと並列に並ぶリアルを眺めていると、その向こうにもっと恐ろしいとても抽象的な……だが、ある実感やニュアンスをともなった、リアル、見えないリアルが立ち現れてくる。
それを見ようと、言葉をあえて捨てて目を細め、あいまいさをとらえようとしてみるのだけれど、うまくいかない……。
もしかしたら、見たくない、知りたくないのかもしれない。