コップの呪縛
2010年 05月 09日
このあいだ、いわゆる最近流行りの教育的な番組(タレントが生徒になって試験や講義を受ける)を見ていたら、そのなかで「コップに半分しか水が入っていないときそれをどう考えるか」という、例のあのよくある問いが出た。それに対して脳科学者という方が「半分しかない、と考えるのではなく、半分もあると前向きに考える人のほうが成功する」という趣旨のことをコメントしていた。
私はいつも、これはなにかの陰謀ではないかと思う。多くの自己啓発的な場面でこの例は取り上げられ、ポジティブシンキングなるものを奨励されるのだけれど、私にはどうしてもこれがうさん臭く感じるのだ。
おっしゃることはごもっともである。物事は前向きにとらえたほうがよい場合も多々あるが、まるでそれが絶対の真理、物事をなんでもポジティブに受け止めていかなければ人生うまくいかないような言い草はやめてほしいと思うのだった。
だってこれはひとつの物の見方の例にすぎない。
別の例。たとえば、ポケットの中の所持金が500円だった。それを「たったの500円しかないと思うよりも、500円もあると思ったほうがより幸せ」というのは確かにそうかもしれないが、それでは思考停止なのではないか? なぜ、俺は500円しか持っていないのか。この500円をどうすれば増やせるのか。そもそも金なんているのか? この500円があればなにができるか。無数にいろいろ考えつくだろう。だが「500円もあって幸せと思おう」という思考法は、この思考法以外の思考をやんわりと排除するのである。
思考法のコントロールというのは、とても危ういのである。
鬱の人に「ポジティブシンキング」を説いたところで鬱は治らない。深刻な精神疾患を抱える人にはなんら効果がない。ようするに、思考法はあまり問題がなく元気で暮している人に対して提案されている。だいたい、人生の複雑な難問を抱えこんでいる人がこんなチンケな思考法で物事を解決できるわけがないではないか。
ことさら何の問題もなく問題がなさすぎてなにをしていいのかわからないほど退屈していて、実際にはそこそこ満ち足りてお金もさりげなくもっている人たちが、さらに自分をよくしたいと思って余裕で取り入れるのがこの思考法である。
だが、そういう世の中のわりとマジョリティーの人たちにこの考え方をすりこむのは社会にとってかなり迷惑ではないかと私は思う。そういう余裕のある人たちほど、現状に満足しないで、さまざまな社会問題に悩んで、怒ってコミットしてほしいからである。なので、この思考方法を日本人に擦り込もうとする自己啓発法というのは、中流の日本人を単なるポジティブバカにしようと企んでいるのではないか、と私は疑ってしまうのだった。
普天間基地のことがこのごろよく話題にあがる。基地の国外移設に「賛成か反対か?」ということで単純に質問されことが多い。そもそも、私は沖縄の人が苦労しているから基地をなくそうというkヒューマンな発想はあまりもっていない。日本は主権国家だからアメリカの軍事基地があるのはおかしいと思っている。それに対して安保がどうの、他国が攻めて来たらどうの、という人が多いのだけれど、安保は条約であり破棄できるし、他国の侵略はいまのところ仮説である。だから、その前に「あなたは他国の軍事基地があって、治外法権があって、そそういう中途半端な日本でずーーーーっといたいですか」というところから話を始めたい。
死刑制度の問題もそうなのだ。「死刑制度に賛成ですか?反対ですか?」と、すぐこうなる。そして「被害者感情を考慮すれば凶悪犯罪者を死刑に処するのはいたしかたない」みたいなことを言い出す。あなたは被害者じゃないでしょう、などと言えば私のことも極悪人扱いだ。賛成であるか反対であるかの前に、死刑制度ってそもそも何よと考えてほしい。そして「国家が国民を殺すことを認めた100年も前の制度をそのまま使い続けていいのかな?」というところから話を始めたいのだ。
でも、うまくいかない。コップに入った半分の水を、どう判断するかで終始してしまう。これが自分にとっていいのか、悪いのか。快か不快か、損か得か、正義か悪か、分けて立場を決めることから逃れられない。コップには半分アメリカが入っていて、こんなに守られていると思うか、これだけしか守られていないと思うか。なんて議論になっている。この思考の呪縛が、思考停止というのだ。さらに枠を広げて、もう一段上から思考することができなくなる。いたしかたない、私たちは、私も含めて常に外部から思考の呪縛、コントロールにさらされているのだ。そのことに意識的になるのは難しいけれど、でも、自分で気がつくしかないんだ。
注意深く、疑い深く、見抜いていく智恵を身につけていくこと。自分で考えてみること。