反対でも推進でもない人たちの潜在的力を。

3月6日12時35分配信の毎日新聞の
<温暖化対策>原発20年間にさらに20基必要 エネ庁試算
という記事を読んだ。

ほんとうに温暖化対策なのか? これにはかなり疑問だ。
原発の問題に関しては、大前提として国のエネルギー政策の国民に対する説明不足が根が深いと思う。日本のエネルギー政策はずっと場当たり的だ。国民は決定に関して常に「蚊帳の外」に置かれている。自民党政権の時代から、原子力を推進するにしても、その未来像の説明はなされなかった。ねじれにねじれた推進派と反対派のもつれは、もう修復不可能なところまできているように感じる。原子力に関する、反対派と推進派の対立の根は深く、両者が歩み寄るのは難しい。

反対の人たちは「原子力は絶対に安全とは言い切れない」と主張し、推進派の人たちは「絶対に安全なんてことはありえない」と、絶対の安全を求める人たちを相手には、もう議論は無駄だと思っている。安全に対する基本的な合意は、まったくできていない。安全とはなにか、について、両者は大きく食い違ったままだ。

原子力はエネルギー問題という枠にはもうおさまらず、生命倫理や環境倫理の問題とも関わっており、推進派、反対派だけの議論ではこの二十年、なんの進展も見られなかったにも関わらず、多分野の多彩な専門家を交えて、問題を多角的にとらえようとする試みはほとんど皆無だった。

というのも原子力という問題が政治的な要素を帯びており、地域や大学にこの議論を持ち込むことですぐに対立構造が生まれ、それが場の安定を脅かすと危惧されてきたからだ。だから、原子力に関する議論は、どこも、そして誰もが積極的にはやりたがらない。よって、大切な問題でありながら、一部の原発反対の人たちの領域でのみ議論され、実のところは、反対か推進かを保留している、大多数の一般国民からほったらかされてきた、のである。 反対でもなく推進でもなく、どうしていいかわからないので態度を保留するという人が圧倒的でありながら、その人たちが、自分たちの視線で議論するような場が生み出されなかった。どうしても、その場には推進と反対という対立構造が持ち込まれ、険悪になるからなのだ。

しかし、どちらでもない。わからない、という態度は非難されるべきではない。現実的に原子力が稼働している日常で生活しているのが私たちだ。
それに対して、過激に反対を叫ぶ人たちと、説明をせずに半ば白けているような政府の御用学者と、だた現場に厳しいノルマと安全ルールを押しつけて、トラブルを隠ぺいしてきた電力会社とが、私たちを取り囲む原子力の議論の場の状況であり、もうここからは何も生まれないだろう。

民間の経済学者はなぜ原発のコスト算出をしないのか。経済学的な観点からみたら原発は得なのか損なのか。それもはっきりしない。計算しようにもコスト計算のためのブラックボックスが存在すると聞いたが、それも噂だ。しかし、この問題に手を出すと「ヤバイ」ことになると、多くの人が思っている。
そういう状況を変えていかなければと思う。誰もが公に議論でき、さまざまな分野の専門家によって、あらゆる角度からその「リスク」を吟味され、それでもリスクに見合うほどのメリットがあるのなら、もしかしたら北欧のように将来的には廃止を前提に、長期計画での運用という選択肢も出るかもしれないし、それに対して、国民も納得できるかもしれない。

いま、日本の状況は最悪だ。長期ビジョンは皆無。コスト計算は原発に都合のいい人たちがやっている。民間における、中立的な立場の議論の場は皆無。反対派が企画する議論の場では対立ばかりが強調される。推進派が作るのは議論の場ではなく一方的な説明の場ばかり。
 「反対でも推進でもない」という人たちが興味をもたないと、もうとてもじゃないが新しい議論は始まらない。大多数の賛成でも反対でもない、という態度保留の人たちが、民間の多様な分野の専門家を巻き込んで学び、対立することをやめて、解決策を出そうとすれば、膠着した原発問題は動き出すかもしれない。
余生の課題と思い、今年、その努力を具体的に始めようと思う。
by flammableskirt | 2010-03-06 16:51

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