とっさのひと言、間を読む。
2010年 02月 25日
池袋のうどん屋さんでしばし談笑する。
中心になっているのは、映画監督の小栗康平さんと、立教大学教授の前田英樹さんだ。前田さんと黒澤明監督の「白痴」という映画の話になった。私はこの「白痴」という映画がとても好きなのだが、「白痴」は黒澤作品のなかでは全く当たらなかった映画で、この映画を好きだという人とあまり出会ったことがなかったのだが、前田さんは「白痴が黒澤作品の中では一番好きだ」と聞き、盛り上がってしまった。
白痴は、ドストエフスキーの「白痴」という小説を、かなり原作に忠実に作っている映画で、舞台は北海道の札幌である。不思議な映画で、この映画の舞台がいったいどこの国なのか見ているとわからなくなる。私にとっては無国籍映画に近い。前田さん曰く、
「白痴は黒澤作品のなかではめずらしい恋愛映画である。それも実に観念的な恋愛映画である」
さすが学者さんは端的な言葉で言い表すと唸った。その通りである。「白痴」は恋愛映画であり、しかも情念ではなく、観念的な恋愛映画なのである。そして「観念的な恋愛映画」というものを昨今、まったく眼にすることがなくなったゆえに、なんだか妙に新しいのである(私にとっては)。
「こういう小説を書きたいんだよなあ。ドストエフスキーの「白痴」じゃなくて、黒澤明の「白痴」みたいな小説。そういうのが好きなんだよなあ、私は」
と、言うと、前田さんは人なつこい笑顔で、くったくなく「書けますよ」と断言した。
それが「いやー、田口さんなら書けますよ」というおべっかではなく、かと言ってポジティブシンキングの押しつけがましさもなく、実にすっきりと、さらっと、しかも確信に満ちた「書けますよ」だったので、なんだか本当に書ける気がしてきた。
人生というのは、不思議なものでこういう、なんのてらいもない、私の小説になど責任も関心もないような人のひと言が「ぽん!」と背中を押すときがある。そういうひと言というのは、ふいに来る。前田さんは、私が書こうが書くまいが、どうでもいいのである。ただきっと「書けるよ」と思ったから口にしただけなのだと思う。でも、このさりげなさはやっぱり凄いと思うのである。
以前に、板橋禅師という80歳を超える禅僧、私に言わせればとんでもない狸おやじ、これはホメ言葉である。一見、実に人当たりがよくにこやかで冗談ばかり言っているが、目はヤクザの親分のように鋭くて怖い、そんな禅師と対談をしたのだが、同じことがあった。
「どのような時代にも、その時代が人を生むのです。いまが混とんと絶望の時代なら、その時代のなかから必ず突破するための人材が現われてくるものだ」
というお話をなさって、私は「そんなものかなあ……」と思いつつ「それはどんな人なんでしょうか……」と呟いたら、板橋さんは、さらりと、しかしドスのきいた声で言ったのである。
「あなたがおなりなさい」
「わたしがですか? まさか……」
そう言いつつ、そうだよなあと思ったのである。「誰が」ではなく「私が」やるのである。他人に頼るのではなく、自分もそこに関与していくのである。微々たる力であっても。
「書きたい」ではなく、書けばいいのである。
私は他人を変えることができないが、自分を動かすことはできる。自分の身体だから。自分で意識して、自分でなにかを始めることができる。いくらでも。たった今この瞬間から、それは可能。すでに可能、もう実現しているのである。
でもまあ、そういう感覚はすぐ忘れるし、この感覚がもっている全能感みたいなのはすぐに思い込みやオカルトと結びつきやすくて危険である。だから、感覚は永続しない。忘れる。
でも、また思い出すのである。誰かのひと言によって。
出会いは、素晴らしいなと思う。
誰かのひと言、それは突然やってくる。
そして、間合いをはかってこのひと言をすらっと言える人は、やはり達人だなと思う。
前田さんは真陰流の武道の達人である。
こういう人たちは、無心で間が読めてしまうのだろう。さくっと、心に言葉が入る。
すごいな、と思う。