人は生きたいように生きる
2010年 02月 23日
最初の10年は、時というものをほとんど意識せずに過ごした10年だった。
その次に10年もそうであった。
20才から30才になったとき、初めて人生が有限であることにうすうす気がついた。
30才から40才の10年間は、あまりにもいろんなことがありすぎた。
親兄弟が死に、子供が生まれた。
40才から50才になるとき、確実に死を意識し、そして10年で出来ることの面白さを知った。
もっと若い頃から10年かけてなにかしよう、という発想をもっていたら別の人生を歩んでいたかもしれないけれど、それはいまさら言ったところでどうしようもない。気がついたのが今なのだから、今からやるしかない。
10年かけようと思えばたいがいのことは出来る。確信する。
だが、いったい自分はなにがしたいのか?だ。
さて、私の人生、もし長生きしたとしても80才までに30年。
70代で死ぬとしたら、10年はたった2サイクルだ。
10年という年月が、リアリティをもって自分のなかに意識できる今、ようやく日々の一秒一分が細かく割れて見える。その集大成が10年であること。毛糸編みの一針、刺し子の一針の蓄積が10年であること。
そして、自分がこの10年をどのように企画し、実行しようが、自由であること。
生きることを自分が企画編集できる国、時代に生まれていることのすごさに、びっくりするのである。
金があろうとなかろうと、学歴があろうとなかろうと、この10年を毎日、なにをして、どうやって生きるのかは自己選択である。自分が選べる。選んでいいのだ。制約はあるかもしれない。だが、制約がない状態なんてそもそもない。
どのような制約のなかであれ、人は自分の個性にそって自己表現が可能だ。可能ではないと思っている人以外は、可能なのだ。それは、死刑囚という非常に制約された環境で生きている人たちと接すると実感する。二度と外には出れないという環境のなかで、人はどれほどクリエイティブに自己表現し、生きたいように生きるか。生きようとしている人はそれをする。しない人はしない。それもまた選択の自由だ。
日々をどう生きるかを、自分で決める。それが、じりつというんだろう。
でも、若い頃はほんとうにわからなかった。10年という歳月のリアリティが、なかった。
リアリティのないものは、企画できない。
人間は自分にとってリアルなものとしか、関われないようにできている。
たとえそれが、他人にとっては荒唐無稽であっても、自分がリアルに感じるものだけが、私を動かす。
そのリアルも、自分が作っている。自分が望んで何度も自分に見せて言い聞かせたものが、自分のリアルになっていく。もちろん、他人に作られたリアルもある。
私のリアルが、社会通念にのっとっているのか、外れているのかも、実は自分ではよくわからなくなる。
自分が作り出した世界は自分にとって現実だから、それ以外のものが見えなくなる。
けっきょくなにもわからないし、なにが正しいとか悪いなどとも言えない。
私のごとき凡人が夢から目覚めることはないのだから……。
だから、夢を見ようと思う。
おもしろい、夢を。
十年一日の夢。