今年は「一日一悪」
2010年 01月 19日
中原昌也さんの小説を読み、この人の「誠実さ」に唖然とする。
そして、いまだに自分がどういう妄想を前提にこの世界と向きあうのか、それを迷っている自分に気がつく。
20代のころ、自分がどう生きるかは自分が決めているというよりも、他者によって、見えない手によって決められているような気がしていた。自分は無力で、自力ではなにもできない。今日、善人であったとしても、明日は悪人になっているかもしれない自分。すべてが外部の影響で決まってしまう。
30代になったころは、もう少し自分に自信があって、というのもバブル景気の自我肥大傾向をもろ反映しての空手形のような自信なのだが、自分が良い方向に向けばよいのだと思っていた。正しいことがあり、正しいことのためにとりあえず生きていけばなんとかなる……みたいな。その正しいことの基準についてはあまり考えていなかった。
40代は、良いこととか悪いことというのは、味方によって変わる。つまり絶対に良いことも悪いこともないようだ、ということに気がつく。しかしながら、自分は自分の信じるところに従って、自分が思う正しいと思うことをすればいいし、そうするしかない。そして、それを人に伝えることが仕事である……、つまり、正しいも悪いもないが、自分が思う「これがいいんじゃないか?」というものを伝えていこうと……していた。
さて、私はいままたしても悩んでいるのである。それは何かと言えば、確かに世の中には絶対なる善とか、絶対なる悪なんていうわかりやすいものはないようだ。だとしたら、自分は何に従って生きればいいのか。自分が良いと思うこともほんとうに良いかどうかわからない。また、世の中の善なるもの、清らかなるもの、そのようなものを人に伝えるというのは、それもまた一つも盲信であり、それが盲信であることを自覚しなければならない。しょせん、どんな道も、それは「虚」であるが、たとえそうだとしても、それがわかった上で、自分の見方、生き方を決めていかなければならない。
私はこれまで「いい子」であり「いい人であること」をがんばって選択してきた。それが悪かったとは思っていない。しかし、ほんとうにそれでいいのか?とこの年になって思うのである。というか、この年だから思うのかもしれない。昔、むかし「いじわるばあさん」という名作があったが、なぜ「いじわるばあさん」が必要なのか、自分がばあさんになってわかるのである。
正直に言おう。イヤな奴、邪悪な奴はいる。 確かにいる。そしてその人たちは自分が邪悪などと思っておらず、どちからといえば被害者意識をもっていて、ちょっとでも特権をもっている人間は袋叩きにして殺してもいいくらいに思っている。タレントなんか人間じゃないし、作家なんか呼び捨てでいいのだ。名前が出なければ人の悪口などいくらでも言うし、こきおろすし、それが当然の権利くらいに思って、自分はまったく悪いと思っていない。だって、自分のとるに足らない発言で相手が傷つくなんて想像の範疇外だから。傷ついているのは自分のほうで、他人の理不尽に比べたら自分はなんて、いじましく生きているのだ……と思っている。
それは誰かと言えば、それは私である。
それが私であるとも言える。
私は基本的にとってもいい子なので、人は恨まないし、悪口は言わないし、他人には気を使い、なにを言われても黙って耐え、自分を攻撃する相手は無視してきた。それで事無きを得てきた。
じゃあ、私の邪悪さはどこで炸裂させればいいのだ?私だって邪悪なんだよ。ムカつく奴なんか五寸釘打って呪い殺してやりたい。この邪悪さは棺桶まで持って行くのか?
私は長いこと、人格障害の父親が酒乱になったときの、想像を絶する邪悪さとつきあってきたのだが……、それはもうほんとうに、なぜここまで他人を貶めるのか? どうしてそんな被害妄想が生まれるのか?とデングリ変えるくらいの邪悪さで、圧倒されたのだが、あの父が邪悪であったことで私はずっと良い子でいられたのだと思う。相手が悪だとこっちは善を演じられる。
父が死んだいま、父は記憶のなかでどんどん清らかな良い人に変貌し、私のなかの邪悪さは募るばかりだ。
どうやら、これから死ぬまでの間に少しずつ、私は自分の邪悪さを小出しに放出していかなければいけない。よりよく死ぬためには、より悪くなる必要がある。そう思ってふと、あのエリザベス・キューブラー・ロスが、死ぬ前にさんざん悪態をついて神を呪っていたことを思い出した。ムカつく世界に、理不尽な医療に、自分を理解しない世の中に、アホな読者に、思いっきり悪態をついて、怒鳴り散らしていたエリザベス・キューブラー・ロス。
彼女が人生で人に施したきた無償の行為、それを考えればあんな悪態はかわいいものだと思える。
そしてまた、2002年に加藤清先生が私に与えた言葉を思い出すのだ。
「田口さん、人間は一日一悪! 善いことなんかやってちゃいけません」
人間の業をひっくり返すような悪いことをしろ。善人になろうとしちゃだめですから。
加藤先生の言葉が、なぜか中原昌也さんの小説を読むと蘇るのである。
私の今年は「一日一悪」の徹底。
だが、業をひっくり返すような悪というのは、善行より遥かに困難。
一日一悪。
これぞ、いじわるばあさんの極意。