花屋にて 生きるということ
2010年 01月 18日
花売り場で花を選んでいる人は、みんな真剣である。今日は「わさび」の苗の前に座りこんで「わさび」と会話をしている、たぶん60代の女性がいた。「わさび」は自宅での栽培が難しそうだから「あんた、うちに来る?」とわさびに問いかけていたのかもしれない。
それから、よくご夫婦でお買い物に来ている人がいて、だんなさんが鉢植えを手に取って見ていると「似たようなのがたくさんあるでしょう!」と釘を刺している奥さん。
「似てないよ、違うんだよ」
というだんなさんを全く相手にせずに店内に消えて行った。
花を見ている人同士はよく会話する。
「あらそれ、きれいね、どこにあったの?」
「あっちの棚にまだ一つ残ってますよ」
「この花、どうかしらねえ。寒くても平気かしら」
「うちのはわりと元気に育ってますけど……」
などなど……。
このホームセンターの生花売り場というのは、なぜか心がなごみ仕事の合間に、仕事場に近いこともあってふらりと来ては花を見る。買わなくても見ているだけでうれしくなってくる。そして、今日はふと、花を見ている自分を見ているもう一人の自分がいて、突然に「ほんとうにたいへんなことがたくさんあったなあ」と話しかけてきたのである。
私は楽天的な性格であるし、講演などしても「辛いことがあったのにほんとうにお元気ですね」とよく言われる。確かに親兄弟のことでは苦労したが、実際に自分に起ったことをそれほど大変だとも悲しいとも思わず、その都度、悩みはしたが、死ぬほど辛いとか、苦しくて病気になる、などということもなく過ぎてきた。思い返してみればいつも笑っていたし、いつもそれなりに楽しく生きてきた。
ところが、この冬のホームセンターの花屋でぼう然と花を見ている人たちを観察しながら「ああ、ほんとうにいろいろあって大変だったなあ」としみじみと思ったの、自分でびっくりした。
なぜ、家族が全員亡くなって、ほっとして、平安ないま、こんなことを思うのだろうか。いまだからこそ思えるのだろうか。わからないが、確かに、自分が苦労したことを認め、ごくろうさんと言う自分がいたのである。そういえば、いろんな人に「がんばりましたね」と言われたが、自分が自分に「よくがんばったね」と心から言えたことはなかった。そもそも、そういうことは思いもしなかった。
だけど、どうしたわけか、陽が降り注ぐ午後のホームセンターの花売り場で、私は自分に対して「ごくろうさん」と言っていたのである。
なにかの終りであることに間違いはなかった。だけども、それがなぜ今なのか、この瞬間なのかはわからない。とにかく今だったのであり、なにか心からほっとして肩の力が抜けたのである。
それから買い物をして、家に戻ってボローニャスパゲティを作って、アップルタイザーを飲んだ。冬の陽射しが長く長く部屋にさし込んでおり、しみじみ「うーん、おいしいなあ」と思いながらスパゲティを食べていると、またしても、妙なことを思った。
こうして、このありきたりな生活にたどり着くまでに、米粒を重ねるように日々を重ねて来たのだなあと。ささやかであるけれど、こぎれいに整った静謐な生活に行き着くまでにどれほどの時間が必要だったか。家族の愛情と信頼が日常になる日を得るまでに五〇年である。安心して、淡々と孤独と向きあいそれを楽しめるようになるまでに五〇年である。ああ、すごいな人生は……と思い、なにがすごいのかわからないが妙に一人で感激した。
この生活も、明日、大地震が来て簡単に消えてなくなるかもしれない。でも、生きていれば私はまた米粒を重ねるように日々を重ね、そしてある日、思うのだろう。
「ああ、地震が来てほんとうに大変だったんだな、がんばったんだな、私」
と。