twitterと脳と難易度
2010年 01月 16日
最初に英語で始めて、一ヶ月ほど前から別のアカウントで日本語でも始めた。
始めたきっかけが英語の練習で、半年続けた成果として、簡単な英文メールなら書けるようになり、海外の友人たちと自分でメールのやりとりができるようになった。これはすごい成果だった。
以前は自分のメールの英文に自信がなくて、出せなかったのだ。つまり「こんな下手な英語で書いたら笑われないかな」ということ。それから、英語の言い回しがよくわからないとか、ニュアンスがわからないとかいろいろ理由はあったけれど、とにかく自信がないので気後れしていたのだ。
毎日、毎日、ひたすら英語でつぶやき続けているうちに、完璧じゃなくてもなんとか通じるらしい、ということがわかり、もちろん簡単な単語や文法も日々覚え、ずいぶんと英作文は上達した。
なにより、英語と日本語の構造の違いというものがわかるようになり、それはつまり思考パターンや言語パターンの違いでもある、ということがなんとなくわかり、それが新鮮だった。
つい最近から、日本語でも始めたのだけれど、日本語はこうしてブログでも書いているから「発見の新鮮さ」というものがない。つまり、得意すぎてつまらない……のである。私は日本語という言語自体を再発見して文学を語る……というタイプの文学者ではまったくなく、自分の起った出来事を猿でもわかるほどの平易な言葉で書き続けてきた。なので「自分の使っている言葉に新鮮味がなく、陳腐に感じる」という体験は生まれて始めてのことで、ものすごくびっくりしたのである。もしかしたら私は英語で作文することが本当に新鮮で楽しいのかもしれない。だから、いまでも、英語でつぶやくほうが、難しいけれどわくわくするのである。
逆に、日本語で「つぶやく」と、なにをつぶやいても「つまらない」と感じてしまう。「なんだかありきたりだな」「くだらないな」と感じる。それを他人がどう読むかはわからないが、とにかく自分では新鮮味がなく飽き飽きしてしまうのである。実に、このような日本語体験は50年も生きてきて始めてのことで、自分で自分にとまどっているのだった。だけど、なぜ「日本語でtwitterすることがつまらない」のか自己分析がうまくできていない。誰か理由を考えてもらいたいくらいだ。日本語でブログを書くことは、いまもこうしてやっているけれど、楽しいのである。やっぱりわくわくする。だけど、twitterをすると「ああ、なんて陳腐なんだ」と自分で自分の言葉に嫌気がさしてしまうのである。まったく奇妙な現象だ。
自慢にもならないが、英語はまったくダメである。しゃべれない、読めない、書けない。
ではどうやってtwitterを英語で始めたかというと、ネットの英語翻訳を利用した。日本語を英語に翻訳するのではなく、まず英語で書いてみてそれを日本語に翻訳してみる……という方法をとった。なんとか通じる日本語に翻訳されれば、それでよしとした。あとはiphonの英語辞書をフル活用、この辞書は高かったけれど優れ物で、用例検索ができる。それが英作文にとても役立った。わからない単語は卓上の電子辞書を使っている。
最初のうちは日本語で文章を考えて、それを英語に置き換えていった。
そのうちに、外国人の英語のtwitterを真似して、言い回しなど覚えた。茂木健一郎さんのつぶやきは英語で、その英語がかっこいいので、それをお気に入りにして単語や言い回しを覚えたり……。そのうちに、同じ外人でも、文章を書く仕事の外人、つまり外国の作家のつぶやきは英語として面白いことに気がつき、外国の作家をフォローするようになった。日本語を使っても面白い文章とつまらない文章があるように、英語にもかっこいい英語とダサい英語があることに気がついた。そしてかっこいい英語というのは、ほんとうに三回転半のひねりが入っていて、すごいのだということに気がついた。そこまでにだいたい三ヶ月かかった。
もちろん私はかっこいい英語など使えない。ダサい英語を使っている。いわゆる単純に物事を記述するだけの小学生の日記のような英語。英語でジョークを言おうと努力はしているが、ニュアンスがよくわからないのでたぶん、デーブ・スペクターの日本語ジョークみたいなことになっているんだと思う。いや、彼の方がはるかに日本語うまいから足元にも及ばないかもしれないが、ああいうニュアンスはずしたジョークになってて「変な奴」って思われているんだろうなあと思う。
そのような試行錯誤の半年間があっという間に過ぎ、最近は旅先でも英語でつぶやき、英語メールが書けるようになってきたのだった。英語でメールが書けるとイタリアやアメリカの友人達とも気楽にやり取りができるようになり、すごく楽しくなった。相変わらず英語は苦手なのだが、ちょっとしたコツを習得したので、辞書を引くことがおっくうではなくなった。日常会話というのはそんなにたくさんの言い回しを知らなくてもなんとかなる。
さて、ではいよいよ日本でtwitterを、となったとき、まず辞書を引く必要はまったくない。思ったことを書ける。考える必要もない。それが、つまらない。なんだか自分がなにを書いても陳腐に感じるという、なにか物足りない感じがつきまとい、うまく書けないのである。いろんな書き方を工夫してみたのだが、どれも、しっくりこない。底が浅いような気がする。思慮がない感じがする。つまり、書くことに頭を使わないことがかえってつまらない。しかし、頭を使わないでつぶやくのtがtwitterだから私の悩みはそもそも変なのである。
考えないで書き流すというシステムを、考えて書くことを習慣にしてしまったために、逆のことができなくなったようだ。つまり、私の頭は「苦労すること、努力すること」を快感として、そちらに快感物質を出すようにしたのである。だから楽に日本語で書いてしまうとそれを「つまらない、陳腐」と判断して物足りないとするのである。なんという脳なのだ!
そんなわけで、日本語でtwitterを書くと、なんだか物足りなくてつまらなくて、わくわくしなくて、楽しくないのであるが、それを他の人にはうまく伝えられない。読んでいる人は「日本語がつまらない」とつぶやく私を「変な人だな」と思うのだろう。それもわかるが、私の脳が、慣れている楽な日本語にダメ出しをするのである。
つまり、私が日本語で楽しみながらtwitterをするためには、日本語でも難易度の高い設定をしなければならないのだ。そうすると、脳はその難易度の高い目的を克服するために、快感物質を出してくれるからわくわくするのである。しかし、いったい難易度の高い日本語とはどんな日本語だろうか? 短歌を読むとか、俳句を読む……とかだろうか。それとも、あの短い字数で短編小説を書き続けるとか、だろうか。古語で書くとかだろうか。決められた字数のなかでエッセイを書くとかか? わからないが……とにかく、そういう設定をしないと私は楽しめそうもない。
最初に、難易なことを設定してしまうと、ずっと、さらに設定の難易度を上げていかないと快感を得られないというのは、こんな些細なことにおいてまでそうなのだ。だから冒険家やより危険をめざすのだろう。苦労する人はさらに苦労することに挑戦しがちだが、その意味がよくわかる。そうしないとわくわくしないのだ。楽しくないのだ。楽なことがとても陳腐に感じて耐えられない。脳とは不思議な仕組みである。
しかし、私はそこまでして、twitterを続ける必要があるのだろうか?
という疑問もあるのだが、その反面、日本語で難易度の高いものを設定したら、私は燃えるのだろうか……と、それを実験し実証してみたい気持ちもあり、なんだかずっと揺れているのである。