死ぬのが怖くない理由
2010年 01月 16日
日中、まったく仕事に集中できずに半日が雑用で過ぎる。沖縄に行っていたのは二日間だけれど、その間にもどんどん用事がたまる。沖縄の治療師の屋比久さんに「ランディさんは、ためるのが嫌いなんですね。いつもすっきりしていたいんですね」と言われたが、その通りなのである。私は捨てるのが大好きである。なんでも捨ててしまう。そしてすっきりしていたい。滞ると具合が悪い。
出張は楽しいが、反面で日常生活から離れるために物事が滞ってしまう。それに疲れる。そういう性分なんだろう。そして滞ってしまうときは、なんとなく「物事がうまくっていない」気分になる。これは気分の問題で、昨日と今日になんら物質的な変化はないのだが、あくまで気分とは天気のようなもので、晴れたり曇ったりするのである。だからそれをネガティブだのポジティブだのと言ってもしょうがない。
昨日は「うまくいっていない」感じの一日であり、それで気分を晴らそうという無駄な努力をして近所のスーパーに行って花を買った。花を買うという行動は非日常なのである。他のものを買うよりも遥かに気持ちが落ち着く。だから気分が「うまくいってない感じ」の状態がやってきたら、お花をお買いなさいと私はすすめます。ただし、買い方が問題である。慣れていないのに高級な花屋に入ると、なんだか気後れして予算的にも割高になり、よけいに落ち込んだりする。花を買うのならスーパーマーケットの花売り場で充分なのである。自分のための花なのだからラッピングなどいらないし、高くてもせいぜい五〇〇円〜七〇〇円で買える。安売りしていると一束百円である。そういうものでよいと思う。
私は日本の花屋さんが嫌い……という言い方はまずいな、日本の花屋さんで好きな花屋さんは少ない。なにかこうプレッシャーを感じる。呉服屋と似ている。入ると買わないわけにはいかないというプレッシャーである。花が好きなので花屋に入るが「見ているだけです」と言うと変な顔をされる。それに花屋のブーケがかなりダサい。ダサいというのはつまり「わざとらしい」ということである。いかにも「ブーケ!」って感じで、なんだかオバサンの少女趣味みたいな花が出てくる。あれがイヤだ。それならスーパーで買ったほうがよほど気楽である。
話がそれてしまったけれど、そんなわけで昨日は花を買いたい気分の「うまくいってない」感じの日だったのであり、そこにもってきて、なんだか編集者とのやりとりがどれもちぐはぐになり、誰も私の書くものになど本気で向きあってなどくれない、しょせん自分のことばっかり、という気分になり、すっかりやる気をなくして、こういう時はさっさと寝ようと思い、家に早々と帰って編み物などして寝てしまったのである。
そうしたら、夢を見た。たぶん、寝る前に東大の竹内整一先生の最終講義のことを考えていたので、それが夢に出たのだろう。私は先生の慰労会でスピーチを頼まれているのだけれど、そのスピーチをしている自分を夢に見たのである。私は夢のなかで、竹内先生に「先生のおかげで本当に学問の楽しさを知りました」と語り、そして「ありがとうございました……」とボロボロ泣いているのである。それがもう、長いスピーチで、自分の半生を語りいかに自分がコンプレックスの塊で、自分に自信がなく、いつも「こんなことをしゃべって笑われないかしら」と脅え、虚勢を張っていたかと、とうとうとしゃべっている。そして「先生と出会ったおかげで、自分は自分のままでいいのだ、恥ずかしいのは無知なことではなく、他人の意見を鵜呑みにして自分で考えなかったり、自意識のために議論したりすることだとわかりました」と言っている。そしてわんわん泣いているのである。
で、目が覚めるとほんとうに泣いているのである。もう頭の中も身体の中も感謝の気持ちでいっぱいで、とてもつもない自己肯定感と幸福感で充ち満ちているのである。それで、ふとんのなかで夢の余韻でしばらくぼう然としていたのであるが、それにしても私の無意識というか、私のなかの私をサポートする機能というのはなんという働きをするのだろうと、ほんとうに我ながらあっけにとられた。こうくるか……やられた、である。
実際、私は20日にスピーチをするのだけれど、また大泣きするんだろうか……。
朝、夫が私の目が赤いのを見て「どうしたの?」と心配するので、「あまりにいい夢を見て夢のなかで感動して泣いたら、起きても泣いていた……」と言うと、「へえ? そんな夢見たことないよ」と言った。私は夢の中でよく感動して泣く。現実にはあまりそういうことはないのだが、夢の中ではよく感涙にむせびなく。現実にはいろんな雑念が感情を押さえているのかもしれない。
マジックマッシュルームでの変成意識状態や、退行催眠での変成意識状態でも最後に出てくるのはいつもこの「絶対的な感謝の感情」である。メキシコでシャーマンからマッシュルームのセッションを受けた時も、繰り返し繰り返し、この感情に襲われる。それは至福であり、ありがとうなのである。もう滂沱の涙なのである。特に星空を見た瞬間に、この感情に一気につかまった時のことは鮮烈に覚えている。瞬く満天の星を見たとき、私はいきなり号泣したのだ。あんな気前のいい泣きっぷりは自分でも初めてのことだった。星空が私を「それでいい」と言ったのである。はっきりと宇宙に絶対肯定されている感じがした。それで、私は自分を産み出したこの世界に感謝でいっぱいになって、泣いたのである。
いったい私の内面にあるこの「ありがとう」という根源的な感情はなにに依拠するのか、なにゆえなのかさっぱりわからない。とにかく自我がゆるんだ時にこの感情は炸裂し、私の身体も心もきれいさっぱり洗い流し、風呂上がりの状態に戻してくれるのである。なにかの拍子に緩んだ自我の隙間から忽然と現われて、すべてを浄化して去って行くこの感情の正体はなんなのか、私にはわからない。でも、とにかくこの感情は私と供にあることを体験的に知っている。だから、私は死ぬのはそんなに怖くない。死ぬときにもきっと変成意識の状態に入ればこの感情がやって来て、さぞかし人生がありがたいに違いないと思うからだ。