浄化
2009年 12月 14日
お二人に会って、ブレることのない創作姿勢に圧倒され、とてつもなく刺激を受けた。
表現という孤高の道を歩いてきた先人たちにお会いしたとき、彼らがいかに他人に対する批判や分析に興味も感心もなく、それゆえそのようなくだらないことを一切口にしないかということに打たれる。
そしてまた人からどう観られるとか、どう思われるということに関しても興味も関心もない……ということ。
だからと言って、常軌を逸しているかといえば、それどころか礼節をもち、謙虚であり、その人間としての純粋さに触れるだけで泣けてくる。冷たい水に手足を浸した時のように私の内側から浄化されるのを感じた。
あまりにも小賢しく、偉そうに自分の浅薄な知識で他人を分析して、それで自己主張をしている文章が多く、またそれを語る人も多く、その分析も「○○の言っていることは的を得ている」というような、分析にもなっていない文章で他人の思考をなぞっているだけの、くだらない、とるにたらない話にうんざりしているような、自分自身にうんざりした。他人にうんざりしている暇など人生にはないことがわかっているのに、凡人なので、そんなくだらないことにひっかかりうんざりしたりするのだ。
まだまだまだまだ、自分へのこだわりが足りない。他人を気にしている。社会通念にとらわれている。やってはいけないことを自分で設定し、こんなことをやったら社会が許さないだろうな、などとすぐに考え、他人の戯言にいちいちかかずらわってる自分にうんざりだ。細江さんが何度も叫んだ「表現の自由と自立」その言葉が重い。ものすごく重い。彼らの作品を見ると、自分がいかに「表現」に対して保守的で、社会通念に脅えていて、メディアに依存してしか活動できていないかがわかり、情けないし、苦しいし、バカだと思う。
ぜんぜんダメだ。まだまだだ。もっともっと自由に、もっともっと自分がやりたいことをやろう。できる。いっしょに時間を過ごしているうちに、そういう勇気がわいてきた。すごい人たちだ。どんどん感化されてしまう。
「あなたはそのことに気がついているんだから、もうできますね」
そう言って、細江さんはにっこり笑った。
その時の迫力はすごく、激励というよりも、もっと喉元になにか鋭いものを突きつけられたような気がした。
やりますよ、細江先生。
見ててください。