民主党が政権をとったので、もう一度歴史を学びましょう

民主党が300議席以上をとって、政権につくことが決定した。
1955年から続いた、延々と続いた自民党政権が終わる瞬間が見れた、というのに、ベルリンの壁崩壊のような解放感はない(笑) かつて、私は冷戦が終われば世界は平和になると思っていたけれど、その後にやってきたのは、もっと得たいの知れない複雑な怖い世界だった。昔のように簡単に、なにかが壊れて新しくなれば世の中は良くなる、という幻想は持てない。そう世界は単純ではない、ということをなんとなく皆が理解し始めたというのは、人間としての成長だと思う。白黒をはっきり決めたり、優劣や、勝ち負けで物事を判断することに対して、皆が懐疑的になっている。これは、分裂傾向から抑鬱傾向への移行であり、人間の精神の面から見れば「大人になった」ということである。

だから、まったく笑顔を見せずに、淡々と慎重に会見に臨んだ鳩山代表は、大人なのだ。四年前の自民党のはしゃぎぶりが、子供なのである。そして子供に政治をまかせてはしゃいでいる者も同じように子供だったのである。物事には必ずメリットとデメリットがある。自民党の政策にもメリットがあった。それを否定して、なおかつ、すべてがよくなるような政策はありえなのである。問題はどのデメリットを選択するか、であり、そのデメリットが弱者により強く押し付けられるのを、皆がどう防ぐかということである。誰だってデメリットをこうむりたくないのである。だから、声がでかくて力のある人は自己防衛をしてデメリットから逃れようとするのである。そうなると声が小さくて、発言力も体力もないような人たちにそのデメリットが押し付けられていくのである。でも、それは他人事である。だから、嫌なら見なくてもすむのである。そして、多くの人は、たぶん、そんなデメリットをこうむるような弱者になるのだけはごめんなのである。だから、自己啓発セミナーでは自分が能力の高い他人に影響力のある人間であると錯覚するように自己催眠の方法を教えるし、弱者にならないためのハウツー本は、常にベストセラーになっているのである。

弱者にデメリットを押しつけて、強者のメリットを追求する自民党の政策が破綻したからと言って、じゃあ、自分がデメリットを受入れましょうという覚悟ができるだろうか。そう簡単に人は不利益を受入れられないものである。それが人間の弱さである。自分は損をしたくないのである。小泉元総理が「改革には痛みが伴う」と言ったとき、その痛みとは弱者が引き受けるデメリットによる痛みであったのだが、大多数の人は、自分がデメリットをこうむる弱者だという認識はなかった。なぜなら、日本という国はとてもダブルスタンダードな国で、たてまえ的にはとても平等感が漂っているからである。文盲率がゼロに近い日本においては、多くの人間はそこそこの教育を受け学歴をもっているため、ある程度の年齢が来ても自分が「いつのまにか弱者になっている」ということに気づくことができない。

でも、日本においてはまだ「俺がこんな目にあっているのはおかしい。だから、なんとかしろ」と一票を投じた人が多いような気がする。確かに教育というものが「いい学校に行けば勝ち組になれる」かのように受験競争をさせるし、親も多くは「将来いい仕事につくために」と勉強をさせるし、それに応えて塾に通い、がんばってきた若者が「約束が違うじゃないか?」と怒るのはいたしかたないだろう。そこにもってきて、啓発本や各種のセミナーは「あなたは本当は能力がある、あなたの年収は安すぎる、あなたの才能が生かされていない」と、これでもかこれでもか、と自己愛を満たすための方法論をまくしたてているわけだから「俺がむくわれないのは、世の中のせいだ」と思い込み、世の中を変えるつもりで投票した人はわりといるのではないかと思う。

ある年配のジャーナリストはテレビで「民主党は勝ちすぎだ、日本人はおかしい!」と繰り返し叫んでいた。この人はとても有名な人だが、討議を自分で完璧なまでに仕切り、誰かが発言していも途中で話を身勝手に切り捨て、それで平然としている失敬な人だ。それが自分のスタイルであることにあぐらをかいて、防衛や外交の問題についてかなり分裂的な自己都合の発言によって存在感をアピールしている。この人の討議の方法は旧態依然としており、議員ともなあなあで親密なことを強調し、自分のスタイルにしがみついているだけの老醜すら漂う方なのであるが、今回の選挙結果に対する対応があまりにもコンサバティブで気の毒ですらあった。この方は長年にわたって自民党政権とつきあうあまり「政治発言はこうあるべき」という型を身につけてしまい、もうそこからご自身が抜けられないようなのである。人はそのように一度手に入れたスタイルを捨てるのはとても大変で、しんどいことだ。

自民が負けたとか、民主が勝ったとか、そういうことではなく、この状況は、日本においてほとんどの人が、なんらかの形で、自分の価値観やスタイルを見直す必要が迫られている、ということなのである。自民党もそうだし、実は民主党もそうなのだ。野党から与党になったということは、まったく今までのスタイルとは違うことをしていかなければならない。有権者も、デメリットとしてなにを選んで忍耐するか、それはなんのための忍耐であるか、とにかく今までとは違う新しい忍耐を選択しなければならない。それも、そこそこ幸福だった人たちにそれが起る。靖国の問題にしても、ダムの問題にしても、税金の問題にしても、これまでとは違うメリットを得ようとすれば、違うデメリットが出てくる。

それに対して自分の感情だけではなく、少し自己都合を離れた世界観をもって、問題を冷静に眺め、なおかつ、自分とはあたかも無関係に見える「困っている人」たちのことも考慮し、デメリットを納得していかなければならない。これはもう、ほんとうに大人の生き方なのであるが、それができないと「やだー、やだー、やだー」とおもちゃ売り場でひっくり返って、親に自己都合を満たせとせがむ子供と同じになってしまうのである。

この国の政治家は、身勝手で厚顔無恥であれば自分の欲しいものが手に入る、という、とても悪い手本を子供に示してきた。それが最大の功罪であると思う。「知らぬ存ぜぬ」で切り抜け、「蛙の面にしょんべん」「口先三寸で横柄」という態度であれば、なにをやっても切り抜けて、既得権益を手に入れて権力の座に居座れる……というようなことを九十年代からずっと子供に見せて来たのである。だから、子供がそういうふうに育ってもしょうがない。それでも子供におもちゃを与えてやれた時はまだいい、おもちゃすら買い与えなくなったので、子供にぼかっと殴られたバカオヤジ。しかし、もうおもちゃを買ってくれるバカ親はいないと思わなければいけない。

日本ではなぜ戦後ずっと、ひとつの政党が政権の座に居座ることができたのだろうか。そのことの不思議を考えてみてもいいと思う。数限りなき汚職があり、失言があり、それでもなぜこの政党は生き続け、腐敗し続け、日本は大変な借金を未来にまで残すことになったのだろうか? その疑問を考えるためには、日本の戦争と戦後の成り立ちについてよく知る必要があると思う。歴史の教科書でいつもすっとばされていく現代史というものだ。第二次世界大戦から現在までをひとつの流れとしてしっかりと教育に組み込むべきだ。歴史は現代から過去にさかのぼるほうがいいと思う。将来のことは誰もわからない。だから、近代において起ったことの善悪を決めることは誰もできない。個々の解釈にまかせていいと思う。だが、このわずか百年の間で知るべきことがたくさんあり、学ぶべきことがたくさんある。

人間は、ある程度、歴史を知り、歴史的視点を手に入れることによって、状況を客観的に見ることができるようになる。だから変革の時期には歴史を学ぶことがとても意味がある。た自分の親や祖父母の時代から何が起り、どういう経緯で今に至るのかが俯瞰できると、自分の都合にばかりしがみついていることができなくなるのである。そのような歴史的な流れのなかで、自分が存在していることを知るのは、デメリットの選択のためにもたいへん役に立つし、過去と未来の接点としての自分を感じることができる。歴史教育というのは、今こそ必要であり、できれば多くの若い人たちに、この日本の百年の歴史について興味をもって本を読んでみてほしいと思うのである。

多くのマスコミが「民主党になって何が変わるのか?」と言う。自民党は「民主のバラまき政策」と批判していた。無駄を省けば、民主党から「無駄なこと」と言われた事業ににかかわっていたものすごく多くの人にデメリットが生まれるのである。その人たちの数は、無駄が省かれれば省かれるほど増えるのであろう。人間は自分がこうむるちょっとしたデメリットにもがまんならないものだ。得をした人がいて、自分が損の側に回るのがほんとうに苦痛なのである。それは誰でもそうなのである。だが、それは考え方の刷り込みとか、癖なのである。保守王国と言われる地域で自民党が強いのは、自民党の議員が本当に身勝手で自分が損をするのが嫌いであり、そういう人ほど、他人の同じ気持ちがよくわかるからである。義理人情などと言うが、それは「あんたが得したい気持ちはよくわかる。俺にまかせなさい悪いようにはしない」という、奇妙なシンパシーのことなのである。そのようにして、損をしたくない同士が地盤というものを義理人情で作りあげた。

スウェーデンでは、現在、より資本主義を打ち出した政党が政権をとった。だんだんと裕福になってきたスウェーデン国民は「みんなが同じように受けられる福祉」よりも「自分が選択できる福祉」を選ぶようになり、国に預けていたお金を自分で使いたいと考えるようになった。人間は裕福になれば、それだけ自由が欲しくなる。それはいたしかたなしだろう。だけども、そういう自分について知っているのと、知らないのではなにかが違う。世界の近代史は人間の歴史である。だから、近代史を学ぶことは人間を知ることである。なぜ戦争になったのか、なぜホロコーストが起ったのか、なぜ原爆が落とされたか……。歴史的な流れのなかで見ると、そこには常に「人間のあり様」があり、だから歴史を学ぶといのは、実は人間である自分を知ることなのだと思う。

つまり、このブログの内容は、民主党が政権をとったので、近代史を学び直しましょう、ということである。

追記 

細川連立政権があり、自民単独政権が続いたわけではない、と言う人もいる。わずか10カ月の連立政権、その立役者は小澤一郎さんだったが……、その後、小澤さんは自民潰しのために新党を作るがうまくいかなかった。私は基本的に日本の政権は自民が動かしてきたと思う。だから55年体制はずっと継承されたと考えている。社会党の村山さんを担ぎ出して成立した村山内閣においてすら、抜本的な改革はなにも起らなかった。政治家の意識が変わることもなかった。そのことは村山内閣時代に解決したとされる水俣病の補償内容を見れば一目瞭然である。当時、幹事長だった自民党議員と話す機会を得たとき水俣病の問題に言及すると「あれはとっくに解決した。何が問題なのか?」と平然と問われた。水俣病において政府がどのような問題のすり変えを行い原因企業であるチッソをかばったか、についてはあえてここでは述べないので、関係書を読んでみてほしい。それはもう想像を絶するようなへ理屈を展開した。このようなへ理屈を堂々と述べ立てて常に国民の健康よりも国家の利益を追求してきたのが自民党の政治だった。それは歴史を見れば明きからであり、それでもまだ昔は「一人の命は地球よりも重い」と言う政治家がいたのだが、小泉政権に至っては、一人の命は国家の利益よりも軽くなっていったことが、テロによって人質になった青年が死をもって示したと思う。それを自己責任という言葉で正当化した世論の背景には、屈折した「エリート意識」が見てとれる。小泉純一郎という人は多くの屈折した人間を、そのカリスマ性によって自分と同化させ、利己的で(利害を度外視してまで他者のために尽くさない)ことを、自分の行動だけに責任をもつ行為として評価したのだ。それは身勝手なエリート意識といとも簡単に結びついた。 絶対多数の人間の利益のために、少数に人間を犠牲にしていいのか? このような問題に直面することは、一般人はそう多くはない。だが、常にこの問題と直面しなければならないのが、政治家という職業なのだ。政治家という職業についたなら「国民の命の犠牲」を絶対に強いてはいけないのだ。そのことが忘れられたまま、今日に至るのは、日本の政治が戦争という問題を総括せずに、日本の軍部の影響を戦後も受けていたからだと思える。歴史を勉強すればよくわかる。どれほど、いまの企業社会、官僚社会が、日本陸軍のシステムと似ているか……。がく然とするほどであり、言葉を失う。しかしながら、そのメリットもあったのだ。そしてそれを享受してきたのは、高度成長期からバブルを生きてきた、まさに私のような世代である。右肩上がりの時代に私は政治などになんの興味もなく、選挙にも行かなかった。80年代後半から90年代にかけて日本は未曾有のバブルを経験し、その頃30代だった。そんな豊かな世の中で、兄は社会適応ができなくなり、ひきこもりの末に餓死するのである。その兄は私に言ったのだ「おかしいのは、オマエの方だ」と。そこからが、私の転換期だったが、それからまた十何年も、自分の価値観が壊れ再生するのに時間がかかった。他者と共に生きるという、そのことが、できなかったし、いまも、まだ利己的な自分との折り合いをつけていくのが難しい……。
by flammableskirt | 2009-08-31 12:26

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