実感
2009年 08月 21日
涼しい日が続いたと思ったら、今朝は曇天だけど蒸すね。ここ、湯河原町は昼近くなって風が吹いてきた。今年はとうとう仕事場で一度もクーラーをつけなかった。風がよく通ったので、暑い日でもしのぎやすかったからだ。はだしでいるとひんやりするくらい。風は思いのほか体温を奪う。都会に行くとアスファルトの照り返しがすごくて、自分がスチームされているみたいに感じる。吹き抜けていく風は大切だなあと思う。
今日も世界中では何十億……私はよく六十億と言ってしまうのだが、それはとっくに超えているらしい。とにかくそれほどの人々が生きていて、でもその人たちも身体の構造は私と同じで、排泄と睡眠と食事が必要で、それを繰り返している……と思うと、不思議でたまらない。そしてその人たちは言葉も考え方も違うのだ。
日本では、年をとった政治家にとって真夏の選挙戦は辛い……というニュースが流れていた。真夏の選挙を闘えないような年よりに、最も大変な仕事をまかせていたのだから申し訳ない。やはりこれをきっかけに引退していただき、ご自愛いただきたいと思う。
私はよく「しょせん人は死ぬ。だから世界は変わる」みたいなことを言って顰蹙を買ったが、でも、ほらやっぱり世代交替は進んでいる。団塊の世代がリタイアし、さらにその前の世代、戦中戦後から日本を牛耳ってきたような世代も消えていく。気がつけば自分が中年という年になり、新しい世代からは「年より」扱いされるくらいの年になってきている。それがたかだがニ、三○年のスパンでそうなるのだから、いやあ、人生ってのはほんとうに短いんだなあと、皮肉でも悲劇的でもなくしみじみと思うのだった。そして、そのことをしみじみと思うようになって、なんだかやっと生きているという妙な実感がわきあがってくるようになった。
あんなに生きている実感が得たいと思っていた、二〇代、三〇代には得られなかったものだが、なんだこんなに簡単に手に入るのか……と思う。つまり、生きているという実感は死ぬという実感と表裏一体なのだ。死ぬという実感なしに生きているという実感は手に入らないのだった。不思議である。だから死から目をそらすということは生きないという選択でもある。死なないと思うことは生きないということでもある。
私は若い頃「死ぬことを前提にして生きるなんて、悲観的でネガティブな行き方だ」と思っていた。だけどそれは間違いだったことに気がついた。そもそもネガはポジの反転なのであり、それらは区別することのできないものなのだ。ネガだけの存在、ポジだけの存在、それはリアルではない。二つが重なったときに像が出現するのであって、それを頭ではわかっていたが、身体がわかっていなかったんだろう。
生きるということはどういうことだろう、と、鬱病の人と出会うとよく考える。生きるのが辛い、生きているだけでしんどいうという。これはもうフィジカルな反乱であり、たぶん精神と肉体が反乱を起こすほどの無理を重ねてきたのだろう。死にたくなる病だけれど、でもこの病は生きるための病、生き抜くために病んでいるのである。なぜ病気になったかといえば、病気を起こした身体の目的は生存であり、死ではない。鬱の人たちは生きるために「自己の死」をなかば強制的に体験させられているような気がする。だからだろうか、鬱から復活した人と、臨死体験をした人には共通の「悟り」にようなものを感じる。