わからないということと死者の視点
2009年 07月 19日
いろいろしゃべったが、私はときどき自分にも他人にも世界にも反吐が出るほどうんざりすることがある。
それは「人は意識が選んだものしか見ないし、意識は自分にとって都合のいいものを選ぶ」ということだ。
浅はかな私は、自分の見ているものだけがすべてだと思い込んで傍若無人に自分の知らないものや関心のないものを「つまらない」と切り捨てる人々に腹を立てる。
「わかったふりしてんじゃねえよ」そしてその言葉はすべて自分に戻って来る。
いったいどれほどの事象を「わかったふり」「わかった気」で切り捨て、くだらないと断定し、勢いよくゴミ箱に捨てて生きているか。私が何を知っているっていうんだ?この世の何を?なにも知らないじゃないか。私は永遠に無知のままで、ただ自分の狭い範囲のことだけをそれすら知った気になったまま死んで行くんだ。ちくしょう。愚か者だ。
……という思いは年々強くなる。年をとればとるほど強くなる。
思い返せば20代の自分はなんと自分を「もの知り」だと思ってたことか。知らないということを思考する回路が閉じていたため、知らないと考えることすらなかった。知っていることばかりしゃべって、知っていることをひけらかして、知っていることに夢中になっていた。あの頃はほんとうに幸せで間抜けで、恥ずかしくて平和だった。
どうしようもなんだ。わからないということをわかるしかないんだ。わからないことに謙虚になるしかないんだ。わからないことに絶えながら生きていくしかないんだ。わからないんだ。すべては。そのうえで、覚悟して意見や立場を決定していかなきゃならなんだ。ほんとうのことはわからないから、暫定的に、立場を決めるしかないし、たとえ暫定的であったにしても自分が決めた立場には「決めてしまったこと」の責任を取るしかないんだ。そういう責任の取り方は、経験でしか学べないから、そのために生きるしかないんだ。
生きるしかない、というのは、正しいのか。それが私の本心なのかといえばそうでもないが、なんだか力が入ると「しかない……」と言いたくなる。これは感情的習慣による言葉の癖であって、それが本心かと言えばそうではないのだが、慣性でもって言葉も流れている。そこから抜けようと思うと、まずは、私がいま何かについて書いていて、問題として提示したことも含めて、もう一度考え直さなければならなくなる。
ええと、つまりこうだよ。わからないことがあまりに多いから、時々いやになっちゃうんだけど、それは自分にも嫌になるし、他人にも嫌になるってことなんだけど、そもそも何に嫌になってるかっていうと、自分の意識の傲慢さで、つまりそれを恥ずかしいと思うようになったってことなんだ。なんで、恥ずかしいと思うのかっていうと、意識を見つめるもう一つの視点ができたからだと思うのだけど、じゃあその視点は誰かってことだな。
それはね、たぶん、死者の視点だ。
年とったら生者であると同時に死者の視点で世界を見てるんだ。
彼岸と此岸と両方がら見てる。
そうすると生者の意識の視点は、すごく傲慢で偏屈に感じるんだ。
うーん。今日はここまでかな。

